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Tempalay『愛憎しい』の感想

『惑星X』

『惑星X』が本当に良くて、10月3日(木)からずっと地に足が着いていないような感覚がある。
ゆっくり時間をかけて振り返りたかったのに、翌日は残業だし、日曜日は試験があってずっとバタバタしている。

Tempalayの曲はどれも好きではあるが、好きの中にも種類がある。
『Last Dance』や『Odyssey』は死んだ後も聴きたいくらい好き、『深海より』は辞書に載せたいくらい好き、『TIME MACHINE』や『新世代』はリピート再生して何時間でも聴いていられるくらい好き、など。

今年リリースされたばかりというのもあるが、『愛憎しい』は自分の中でそうした位置付けがされていない曲だった。
『惑星X』で綾斗さんのMCの後に聴いた『愛憎しい』がとっても良かったので、もっと考えたくて感想日記を書いてみる。

あい‐ぞう【愛憎】

愛することと憎むこと。
「—の念が入り混じる」「—相半ばする」

辞書で「愛憎」を引くと「愛することと憎むこと」と出てきた。そのままだ。
「愛憎」って、人間相手にしか起こらない感情なのではないか。
「平和を愛する」や「悪を憎む」のように、「愛すること」と「憎むこと」は人間以外にも使うけれど、「愛憎」という熟語になると人間相手にしか使わないような気がする。
なんとなく言葉の選択が綾斗さんらしいと思った。

10月9日(水)の朝4時台に、綾斗さんが沖縄のSLIVER HIVE.で弾き語りライブをやると告知されていてびっくりした(あまりにも急すぎて行けなかった)(行きたかった)。
しかも「昨日(8日)の朝方出会って、昨日の朝方決まった」らしい。対人恐怖症までいかずとも人付き合いが苦手な私からすると意味が分からない。すごすぎる。

ミュージシャンという生き方と関係しているかもしれないが、AAAMYYYちゃんや夏樹さんも交友関係が広いし、自分と他人との間にある垣根が低いと思う。
AAAMYYYちゃんたちの垣根が竹で作られているとしたら、私の垣根は有刺鉄線の張られたフェンスだ。

私がミュージシャンだとしても「愛憎」なんて言葉は頭に浮かばない。
もちろん言葉自体を見聞きしたことはあるが、おそらく人付き合いを避ける分、愛憎を伴う感情を抱くことが少ないから思い浮かばないのだ。
だから『愛憎しい』という曲名に、出会ってすぐ弾き語りライブが決まるくらい開けた交友関係を築ける綾斗さんらしいタイトルだと感じたのだと思う。

それなら単純に『愛憎』というタイトルでも良かったと思うが、『愛憎しい』と造語にすることにも綾斗さんらしさを感じる。
「○○しい」は、「美しい」や「喜ばしい」のように形容詞をつくるときに使われる。そして、形容詞は物事の状態や性質を表す。
「愛憎」という熟語だけだと止まっているような、ニュートラルな印象を受ける。
「愛憎しい」と形容詞のかたちにすることで言葉に空気が生まれるような、言葉の奥行が広がるような印象に変わる。面白い。

SF小説を読んでいると、たまに「これはSFでしか得られない」というような感情に出会うことがある。
前述したように人付き合いが無理な私は、親から何度か「人は人にしか磨かれない」と言われた。
私がSF小説を読みSFでしか得られない感情に出会うように、人付き合いからしか得られないものや感情がある。「愛憎」もそのうちの一つなのだと思う。

歌詞に「生きるほどに傷み」とあるが、生きることそのものに対する傷みというよりは、生きて、人と関わる中で負う傷みなのかと想像した。

せいいっぱい

『惑星X』の「やめないで良かった」という綾斗さんの言葉を聴いてから「あのときせいいっぱい生きていたもの同士 永遠に」という歌詞を聴くと、また印象が変わってくる。
この歌詞自体は「宮崎駿が、高畑勲に向けた弔事から取った」そうだ。

これは、宮崎駿が、高畑勲に向けた弔事から取ったんですよ。

─ああ……!!

「パクさん。僕らは精一杯あのとき生きたんだ」って。

─ああ、それで「愛憎しい」か。宮崎氏の高畑氏への愛憎が、『君たちはどう生きるか』を作らせたわけで。

そうそう。で、この曲はアルバム制作の最後に作ったので。なんだかんだで、このアルバムは3人で作ったという感覚があったので。いろいろ思うことはありますね。

小原綾斗が語る、傑作『(((ika)))』にまつわる表と裏、Tempalayというバンドの真実」(2024年10月11日アクセス)

振り返って「あのときせいいっぱい生きていたもの同士」と言えるのは、「あのときせいいっぱい生きていた」人々だけだ。
精一杯生きているとき、渦中にいるとき、自らを俯瞰することは難しい。ひたむきに生きて生きて生き抜いてゆく。気付いたときに「あのときせいいっぱい生きていた」と思える。
過去を振り返るかたちでしか、その時点を評価できない。がんばった先に何があるのか、がんばらなかったらどうなるのか分からない。毎日くだす無数の判断がどういう未来を招くのか分からない。だからこの選択は正しいのだろうかと不安になる。

冒頭に、日曜日に試験があったと書いた。英検3級を受けた。殆ど行かなかったもののとっくに中学は卒業しているし、仕事で英語は使わないのに受験することにしてしまった……。
受験料が6,900円もしたので、子どもたちに混ざりながら一次試験を受けてきた。一次試験に合格したら面接がある。無理すぎる。緊張。

強迫観念のように何かしら常にがんばってしまう。がんばらないと死刑になる国に住んでいるみたい。
もちろん受験の動機には「英語が理解できたら良いなあ」という気持ちもあるが、それよりもがんばっていることを証明するために受験する動機の方が強い気がする。

証明と言っても誰かに認められたいとか、他人より勝っていたいというわけではない。
ありのままの自分を受容できない。「何かにがんばる私」をつくることで、遡って「未熟な私」を演出しているのだろうか?
「私は未熟です。だからこんなにがんばっています。がんばっている人に文句を言わないでください」という自己愛強めの防御?
「がんばる人は美しい」みたいなことが言われるけれど、私のがんばりは愚かだ。

確かに私はがんばっているけれど、こんな有様だから「せいいっぱい生きてい」るとは違うような気がする。
でも、私なりの精一杯ではあるのだ。
いつかこの時期を振り返って「せいいっぱい生きていた」と言えるようになるのだろうか。そう言えるとき、私はどんな姿をしているのだろう。

感覚と理論

音源の冒頭は歌声が加工されているけれど、途中から綾斗さんの声になる。幕が開けたような、霧が晴れたような感じがしてとても良い。
配信を観なかったので記憶違いかもしれないが、「惑星X」のときは最初から加工されていない綾斗さんの歌声だった。

過去に起きたことは変わらない。でも過去を解釈する自分は日々変わってゆくということは、私にとって希望を感じさせる。
歌声が切り替わるのは、過去に対する解釈が変容し、それまでかかっていたもやが消え去ったかのような清々しさも覚える。
ギターやドラムなどの音が増えて、それまで単色だった過去が色鮮やかに染まる。

壮大さを感じさせたまま幕を引くのかと思いきや、終盤で曲調がガラッと変わるのも面白い。シングル曲ではなくアルバム曲だから、前後の繋がりを考えてこうなったのだろうか。
作曲は綾斗さんだけど編曲はTempalay名義だし、AAAMYYYちゃんや夏樹さんの意見もあるのかな。

CINRAのインタビュー記事で夏樹さんは「抽象的に楽曲を捉えられない」「音楽をめっちゃ物質的に考えて」いると仰っていたが、私からすると音楽はかなり抽象的なものだ。
夏樹さんの仰る「抽象的」とは、情景を音にするとか、何かのテーマに対して音作りをしていくということを指すのかと思う。
綾斗さんは、全てではないだろうが胸がギュッとなる感覚とか幼少期の心象を音楽で表現されているようなので、「『このビートに対してこういうベースを乗せたい』とか『これはあの楽器を使ってこう鳴らしたい』」と考える夏樹さんにとっては抽象的に感じられるのかな。

私は常に何かしら考えてしまう。考えるには言葉がいる。自分がすごく言葉に支配されているなと感じる。病院の先生に「何も考えない時間を作った方が良い」と言われたときは、思わず「無理です」と言ってしまった。
音楽には言葉がない。楽譜は一種の言語のようなものだろうし、音楽理論もあるから、言葉がないからといって抽象的な、感覚的なものというわけではない。
いや、そもそも言葉も抽象的なものなのか?

私は子どもの頃から体育、音楽、美術といった身体を使う感覚的な授業が苦手だった。国語や算数が得意だったわけでもないが、頭だけ使う授業の方が楽だった。
頭だけの、感覚の要素が少ない教科は、がんばれば何とかなるかもしれないと思わせてくれた。跳び箱とか、合唱とか、工作は感覚の要素が強すぎて、がんばっても上達する気がしなかった。

音楽は私の中で「感覚」の引き出しに入っている。「感覚」に属するものは全て抽象的だ。ちゃんと言葉で説明できない。
だから夏樹さんのインタビューを読んだときに、「音楽は音楽である時点で抽象的では?」と思ってしまったのかもしれない。

感覚的なものが苦手だから、人付き合いも苦手なのだろう。
コミュニケーションが共同体の価値観や感覚に大きく依存しているハイコンテクスト文化の日本で暮らすのは難易度が高すぎる。空気を読め、察しろ、行間を読め。

自分でも理屈っぽいと思うし、理屈っぽい発言をすると家族に「そうじゃないんだよなあ」と言われる。
私からすると「そうじゃないなら、何なのだ。言葉で説明しろ」と思うが、感覚的なものらしい。
言語化を怠るな、受け手に解釈を委ねるな、それは語り手の怠慢だ(とまでは思ってない)。

とはいえ、Tempalayのライブに行ったり、美術館に行って彫刻を観賞したり、感覚的なものに触れるのは好きだ。
そんなに言葉に支配されて生きているなら、誰が読んでも解釈が一致するような歌詞の曲が好きになりそうなものだ。
Tempalayの歌詞は抽象的だ。文脈も、何のことを歌っているのかも分からない曲が多い。でも良いなと思う。

『惑星X』の感想日記に実感を得られたことの喜びや、感動できたことのうれしさを綴った。
常に頭が言葉でぎゅうぎゅうだからこそ、感覚的なものを得られたときの喜びも大きくて、憧れも強いのだろう。

「むきだすほどに狂気」「もっと遠く深く新しい」「痺れるものに触れてほしい」という歌詞は、言葉の檻に囚われている私に突き刺さる。
深く感動したとき、人は「言葉にできない」と口にする。引用した歌詞の部分は、言葉にできない抽象的な、感覚的なものを歌っているように感じられた。

言葉は、時にわたしを守ってくれる。でも言葉が邪魔して、もっと奥深くにある感情に気付かせてくれていないのでは?と思うときもある。
言葉の檻を壊して、感情をむき出しにするのは傷みを伴うけれど、そうすることでもっと遠く深く新しいものに気付くことができる。傷みと同時に生きていることを実感する。
「痛みを伴わない教訓には意義がない」「人は何かの犠牲なしに何も得る事などできないのだから」(『鋼の錬金術師』は名作!)

生きること、それ自体が不安の連続なのだから、傷付きそうなことは避けて生きたい。家から出たくない、電車に乗るのが怖い、教室に入りたくない。
ある程度は避けて生きることもできるし、避けることが悪いわけでもない。でもどうしたって経験しないと分からないこともある。
いつか自分の人生を通して様々な感情を知ることができたのなら、振り返って「あのときせいいっぱい生きていた」と思える日も来るのかもしれない。