Tempalay Tour 2024 “((ika))”(広島公演)の日記
ツアーが終わったというのに、一週間以上も前の日記を書くとは。
元々、広島公演の日記は書くつもりがなかった。書けそうになくて、代わりに1つ前の日記を書いた。
生来の完璧主義が、大阪公演から書き続けてきたのに広島公演だけ書かないのかと抗議してくる。
要因が内外どちらにあったとしても、自分の胸中に沸き起こった負の感情のせいで今までのパターンを崩されるのにも腹が立つ。
せっかく好きな本屋さんへ行けたのに、そのことを記録しないのも嫌だったので書くことにした。
ステージを見られなかったし、ライブのことは殆ど覚えていない。だからこの日の記憶というより、曲を聴き始めてから思ったことのまとめになってしまうかもしれない。
それなのに、この記事タイトルを付けるのはいかがなものか。完璧主義がうるさいので許してほしい。
今回行ったライブ
・6/1(土) Tempalay Tour 2024 “((ika))”@BLUELIVE HIROSHIMA(広島)
ライブ前の日記
以前の広島遠征で立ち寄った「READAN DEAT」さんを再び訪れた。
お店の奥でligiさんによる個展が開かれていた。ligiさんが選んだ書籍からインスピレーションを受けてつくられた作品が並んでいる。
どこかの国に昔から伝わっている神様みたいな雰囲気がある。
特に良いなと思ったのが、壁にかかったオブジェだ。上段の手招きするような、何かポーズを取っているかのような手も好きなんだけど……。
右下の子がかわいすぎる!
やっぱり買って帰れば良かったかな……5月6月、遠征でお金が吹っ飛んだので諦めてしまった。私は度々この子を思い出すだろう。かわいい。
お店を出ると、お昼を少し過ぎた頃。READAN DEATさん近くにあった「音楽喫茶ヲルガン座」さんへ向かった。
ランチメニューを見ると、「イカと柚子胡椒の和風カルボナーラ」とある。イカ!もちろんこれを選んだ。
カルボナーラの前にキッシュをいただいた。
昔、マフィン型でキッシュを作ったことがある。また作ろうかな。マフィン型だと手軽に作って食べられるから良いんだよね。
麵はスパゲッティでなく、ベトナムのフォーだった。お刺身のイカのような透明感だ。とてもおいしかった。
デザートに偉人パフェもいただいた。
ランダムで偉人のクッキーと説明文が付いてくるらしい。「アインシュタインが良いな」と思っていたら、ヒポクラテスだった。
○○ス、哲学者と思いがち。ヒポクラテスは「医学の父」と呼ばれているそうだ。そう言えば「ヒポクラテスの誓い」って、どこかで読んだことがある。
ライブ翌日から読み始めた佐藤友亮先生の『身体知性』に、ヒポクラテスの名前が出てきてはっとした。本を読んでいると、度々こういうことが起きる。今月読んだ『自律神経の科学』にも出てきた。
私にとっての読書は、趣味の一つというより生活の一部だ。本を通して繋がる世界は居心地が良い。学校のクラスのように境界がはっきりしていなくて、一つ一つがゆるやかに繋がっている。
その他の日記
最近よく「一瞬」という言葉や概念が目に留まる。「類は友を呼ぶ」に似た「類は本を呼ぶ」「類は言葉を呼ぶ」とでも言うような現象がある。
常日頃考えていなくても、頭の片隅に留めてあることは、それが目の前に現れた瞬間にはっとする。
「アンテナを張る」という表現がある。それは能動的すぎて違うような気がする。ぼんやりと、無意識に、なんとなく。でもそれが現れたときにはすぐ気が付ける。
1つ前の憂鬱な日記の最後に二階堂奥歯さんへ向けた雪雪さんのメールを引用した。しょんぼりした気持ちのとき、奥歯さんの日記を読み返す。
ここにも一瞬がある。
前述した佐藤友亮先生の『身体知性』では、佐藤先生と武道家の内田樹先生との対談が掲載されている。そこにもわずかな時間の話があった。
大好きな太宰治の『女生徒』にも。
読み終えたばかりのカフカの断片にもあった。
私が一瞬という概念に惹かれるようになったきっかけは、ブライアン・グリーンの『時間の終わりまで』を読んでからではないかと思う。
宇宙の始まりから終わりまでと比較したら、人類の歴史は一瞬に過ぎない。
学研キッズネットによると、ヒトは「700万年前にアフリカで生まれた祖先がゆっくりと進化してき」たらしい。
一方、宇宙は138億年前に誕生したと言われている。700万年前なんて、あまりにも最近の出来事だ。
では、人類はいつ滅びるのだろうか。それは分からない。世界各国で核戦争が始まったら、終末時計は急速に針を進めるだろう。もしかしたらまたパンデミックが起こるかもしれない。
絶滅のシナリオは分からないけれど、太陽の寿命である50億年後に滅びているのは確かだろう。いや、劉慈欣『流浪地球』のような活路もあるのか?
ともかく私達は、どんな人であっても一様にかけがえのない時間を生きている。誰にも侵害されてはならないし、してはならないと思う。
(ただ私は犯罪者や加害者をどう捉えたら良いのか分からない。宗教家や思想家は、許されざる罪を犯した者に対しても「かけがえのない生命」と言うのだろうか。存在それ自体が、誰かを、何かを加害している可能性だってある。本を読んで勉強してゆきたいテーマだ。)
広島公演の記憶は殆どないけれど、『Booorn!!』を聴いて「一瞬だ」って思ったのと、『湧きあがる湧きあがる、それはもう』を聴いて、余白が広くて良いなあみたいに思って泣けたことだけ覚えている。
『湧きあがる~』の歌詞って、よく分からない。分からないと言いつつ、感じるから考えるみたいなところはある。
さっき引用した『カフカ断片集』の解説によると、カフカは自作を出版する際、余白を大きくとってくれるよう、いつも出版社に頼んでいたらしい。
カフカの断片は、読んですぐ意味の分かるような文章は少ない。何度も読んだり思い返したりして、ある日ふと「こういうことなのか?」と、気付くものなのかもしれない。
「分からなさ」というのは余白が大きいことなのかもしれないと思ったりする。
『湧きあがる~』に感動したのは、そういう余白を感じられたからだろうか。自分の中にも広い余白を持てたら良いのに。
この前、バスでご高齢の方に席を譲った。緊張した。でも「ありがとうございます」と気持ち良く座っていただけて、ほっとした。そのとき、心のゆとりが増えたような気がした。
人によって傷付くこともあるが、人によってあたたかな気持ちになることもある。
些細なことで全部が駄目になってしまう私なので、いい気分だったのに一瞬で奈落に突き落とされたかのような気持ちになることもある。でも、その逆もあるのだと知ることができた。
この前読んだ『「くぐり抜け」の哲学』で稲垣諭先生が「マイクロ・カインドネス」という言葉を用いていた。
こうしたとっさの行為は相手を助けたいとか、見返りがほしいといった欲求からするわけではない。稲垣先生は「他者とつながろうとしてしまう瞬間」(333頁)と表現している。引用して気付いたが、ここにも一瞬がある。
バスで席を譲って心のゆとりが増えたと感じたように、私達は自分の善い行いに少し気分がよくなる。でも、そのとき相手がどう感じているかについてはあまり深く考えない。
本書によると、ほんの些細な親切行為は、見知らぬ相手の幸福度を持続的に高めることが分かっているそうだ。それだけでなく、親切を享受した人がより寛大になるよう促してもいるらしい。
一瞬という短い時間で何かが変わるわけないだろうと思ってしまう。
でも、『女生徒』が一瞬のうちに過去、現在、未来を感じたように、カフカが一瞬のうちにも多様性があると言ったように、きっと一瞬には時計の針では計れないような、ぎゅっと詰まった何かがあるのだと思う。
そう思うと「いつもいつも一瞬 ひとときの愛してる」って、なんてあたたかな歌詞なのだろう。やっぱり好きだなあ。