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Tempalay『GHOST WORLD』の感想

※下記要素が含まれます。
・自作ぬい及びぬい撮り

頭と心

昔から頭と心が一致させられないことに悩んでいる。
例えば、頭で「時には仕事で手を抜くことは大切だ」と考える。でも無駄に真面目な私は全力でがんばってしまう。そしてストレスを抱えこみ病気になる。

頭で「真面目なのは良いことだが、病気になる程がんばらなくても良い」という理屈を分かっていたとしても、心が受け入れない限り頭が従ってくれないような感覚がある。
私という人間は一人しかいないのに、いつも頭と心がバラバラだ。

最近、心が頭の意見を飲み込んでくれたことがあった。
小説を読んだり、音楽を聴いたり、絵を観たりして感動する。色んなことを感じる。そのとき「こんな風に感じるのはおかしいかな」と思ってしまうことがあった。
頭は「他人におかしいと思われたとしても、無視すれば良い。そもそも実際に何か言われたわけでもないのに悩むな」と言っている。なぜだか心がずっとその意見を受け入れてくれなかった。

具体的な何かがあったわけではない。数週間前、ふと「他人からとやかく言われようと、私が感動した事実は変わらないのだからそれで良いじゃないか!」と心でも思えるようになった。

感動

『GHOST WORLD』の「感動って枯渇しちゃう」という歌詞が好きだ。好きというか、「分かる!」と言いたくなる。
「感動」は気になるキーワードでもあり度々日記にも書いているが、大人になればなるほど感動する機会が減ってゆくなと思う。感動の源泉が枯渇する。

はじめて花火を見たとき、はじめて飛行機に乗ったとき、はじめて星空を見たとき、どんな風に感じたのだろう。
大人になった今でも星空を見たら感動はするだろうが、子どもの頃のようには感動できない気がする。
例えば80歳にもなって「星がいっぱいだ!すごい!」とはしゃいでいたらおかしいかもしれない。でも、やっぱりいくつになっても感動したい。
だから続く「誰しも暗中模索しています」という歌詞にも「分かる!」と言いたくなる。

花火

人生

当たり前だけど、他人がどんなことを考えて過ごしているかなんて分からない。
私はたまに「人生で成し遂げたいこと」とか、「どう生きたいのか」とか、文字にすると大仰に思えてしまうことを考える。

例えばSNSに楽しげな生活を載せて「いいね」をもらい自己承認欲求を満たせたとしても、いつか「なぜそんなことに時間を費やしてしまったのだろう」と我に返ってしまいそうだ。
他者からの評価や、他者からどう思われるかを軸に生きてしまうと、どこかで虚しくなってしまうような気がする。 

例えば私がアイドルだったとして、握手会に来てくれたファンの人数や、写真集の売れ行き、Xのポストへのいいね数など、具体的な数字で評価されるようになったら、他者の評価を気にしてそれが軸になってしまうかもしれない。
インターネットでも現実世界でも人付き合いが狭い私は幸いにして(?)、そういう悩みとは縁遠い。

どう生きたいかに答えは出ていないが、とりあえず死ぬときに「良い人生だった」と思って死にたい。「もっと自分の意見を主張しておけば良かった」とか「あのとき我慢するんじゃなかった」とか思いながら死にたくない。

棺にはぬいぐるみを入れてほしい。

はじめて『GHOST WORLD』を聴いたとき、「業を成す」って何と思った。「業」の意味を調べたら理解するのが難しそうだった。

仏教には「因果応報」という考え方がある。行為の善悪に応じて、その報いがある。
日常会話でも「自業自得」という言葉が使われるように、自分の行いの報いが自分に返ってくる、原因に対して結果があるという考え方は違和感なく感じられる。

「業」という言葉は重たい響きがする。だからなんとなく悪い意味に捉えていたが、辞書によると「報いのもととなるすべての行い」のことを指すので、業という概念に良い悪いはなさそうだ。
「成す」は「ある行為をする」ことや「物を作りあげる」ことを意味する。
つまり「業を成す」は、報いのもととなる行いをするという意味になるのか?私たちの行為の全ては報い(結果)として現れてくる。

「業」の思想って、人のお金を盗んで(悪業)、逮捕される(報い)ような短期的な話ではなく、前世で悪業を作ったから今世で病気になるというような長期的(?)な話なのだろうか。
宿命論的な考え方の宗教では「全て決まったことだから努力しても意味がない」となりそうだけれど、「業」の思想は「ほんなら善業積んでいきますか」って前向きになれそうな気がする。
勉強不足で語っているので、世界の思想をまとめたような本を読んでみたい。

『GHOST WORLD』と『預言者』

冒頭の「I don't care かつてないつまんない観衆どうかしてんな」は、『預言者』で「BGMじゃないわ」と歌う綾斗さんを思い出させる。

『月見うどん』の感想日記に情報が多すぎることを書いた。現代社会はあらゆる情報に溢れている。音楽や動画、ポッドキャストといったコンテンツも無数にある。
クラスのみんなが同じテレビ番組を見ていた昭和の時代は殆ど終わってしまったのだ。

綾斗さんは『預言者』で「ペンで吐いてとってつけたような歌詞だろ」と自虐的に歌っているものの、自分でつくった曲を聴いてもらえたら(反応がもらえたら)うれしいのではないか。
「私は分かってます」ということを言いたいのではなく、世の中のあらゆる行為は他者から反応されるとうれしいものなのではないかと思う。

家族に料理をふるまっておいしいと言われる、高齢者の方に席を譲ってありがとうと言われる、共用スペースの掃除をしたことを感謝される。
社会に生きなければならない人間は、他者と関わることで快の物質が出るようプログラムでもされてそうだ。オキシトシンとかそこらへん(未勉強)。

ラジオやテレビで音楽を聴くしかなかった時代は、曲の流れる時間に今よりも集中したはずだ。レコードを買えば繰り返し聴くことはできたかもしれないが、殆ど無料であらゆる曲を何回でも再生できる現代とは次元が違う。
指一本で曲をスキップできる現代に、真剣に聴いてくれる人はどれだけいるのだろう。「つまんない観衆」が増えて、つくった曲もただの「BGM」になってしまう(BGMが悪いと言っているわけではない)。
小原綾斗とフランチャイズオーナーの曲をサブスク配信しない理由もそこにあるのかもしれない。

『ゴーストアルバム』リリース当時のインタビューを読むと、夏樹さんにもBGMに対する意識があることを感じられる(インタビューは祥太さんについて語っているものだが)。

―Tempalayと同じく、BREIMENも最終的にはポップに着地させようという意識が強くあると思うし
Natsuki:ポップだけどBGMにはならないですよね。

―流れていかない。
Natsuki:そう、「BGMにはさせねぇよ」って感じがBREIMENの曲や祥太くんのプレイにはあるので。

Tempalay、覚醒す。壊れゆく世界に生きる切なさとおかしみを音に(2021年3月19日)

他者

冒頭で「I don't care」「かつてないつまんない観衆」と歌いつつ、後半で「兄さん姉さん 狂おしいでしょ」と歌っているところが人間らしくて好きだと思う。

人付き合いが苦手で一人でいる時間が少ないと死にそうになる私でも、やはり他者との関わりは避けられないし、何らかの反応をもらえるとうれしいものだ。
それがたとえ挨拶のような定型的なコミュニケーションだとしても、私が意識的に「うれしい」と感じていないとしても、脳(心?)には良い影響がある気がする。

「かつてないつまんない観衆」と突っぱねた表現の後に「どうだい」と呼び掛けるのは、一人で生きようとしても生きられない人間を表しているようだ。

他者からの評価や、他者にどう思われるかを自分の軸にしてしまうと虚しくなるのではないかと書いた。だから自分勝手に生きるのが良いとか、自分に影響を及ぼす他者と関わらない方が良いとか、そういうことを思っているのではない。
他者の反応や評価のために行動することが目的になってしまうと、自分を犠牲にしたり、見返りを求めすぎてしまったり、不健康な生き方になってしまう気がする。

「これをあげたら喜ぶかな」とプレゼントを選ぶことも、他者の反応のための行動と言える。
他者に反応をもらうことが目的になっている場合とどう違うのか説明しろと言われたら難しいが、この場合は他者の評価や反応で自分の穴を埋めようとはしていない点が異なる気がする。

『あびばのんのん』に「かすかに心に穴が空いたぽっかり」とあるが、誰しも心に何かしらの穴を持っているものだ。
自分の穴がどんな形なのかも知らぬまま、他者の反応や評価によって無闇矢鱈に心の穴を埋めようとする。それではうまくいかない。

本田さんがうなずいて
「みんな、自分の穴を埋めたくて必死なんです」
と言った。
「その穴を埋めてくれる他人……つまり愛情を、必死で求めています。でもね、その穴にパズルのようにぴったりはまる愛情ってないんです。なぜなら、人と人は違うから。これだけ話していても、私はRさんの穴を完全に理解することはできないし、見当違いなものを差し出すことだってあると思います。」

土門蘭『死ぬまで生きる日記』130頁

諦め

色んな理由で、日々辛かったり苦しかったりする。その根本的な原因は諦め切れないことにあるのではないか。
殆どの人が最も執着しているであろう生を諦めることができれば、おそらく何があっても揺るがない自分になれるはずだ(ネガティブな揺るがなさだ)。

綾斗さんの歌詞のどこか諦観したような眼差しが好きだと何度か書いたことがあるが、そう感じるどの曲も完全に諦め切れてはいない。
「諦める」とは、「もう希望や見込みがないと思ってやめる」ことを指す。諦め切れないということは、多少なりとも希望や見込みを感じているのか。
その希望が「一つ星」や「光彩奪目」など光にまつわる言葉に表れているようにも思える。

「諦めたら楽になれるのに」と言いながら、諦め切れない人は少なくない。
冒頭に頭と心を一致させられないと書いたが、そういう人は多いのかもしれない。それは頭と心が一致しないというより、葛藤と呼ぶべきものなのか。

さっき引用した『ゴーストアルバム』に関するインタビューがとても良くて、久し振りに読み返した。
2020年以降、私たちを取り巻く環境がガラッと変わる中で三人が感じたり変わったりしたことが述べられている。
AAAMYYYちゃんは「自分の中の当たり前が全部壊れ」て、夏樹さんは家の中でソロ曲のミックスや、マスタリング、ドラムの練習をする中で「曲全体が前よりも見えるようになって」、綾斗さんは「自分が実際に見たことのある自然の驚異とか美しさに意識が向い」たという。

2020年以降の変化は誰もが無視できない程大きくて、生活の変化を迫られた。
でもそれ以前だって、今だって常に環境は変わり続けている。私が気付かないだけで、環境に合わせて少しずつ変わっているはずだ。
人間は環境を支配しているように思えるが、それは思い込みで無意識に影響を受け、日々の変化を余儀なくされている。

この数年間、身体の変化に振り回されている私はそれを強く感じる。
「8時間寝る」「三食食べる」「運動する」「煙草は吸わない」といった健康へのアプローチをしたとしても、病気になるときはなる。
身体は私のものだと思っていたが、私のものではあるのだろうが、完全にはコントロールできない自然環境の一部なのだということを感じさせられる。

おばけのように身体がなくなってしまえば、身体の不調は感じなくて済むのに。『GHOST WORLD』というおばけの世界がうらやましい。

曲の感想を書くつもりが、いつもそれ以外のことばかり書いてしまっている気がする。
でも、この日記を書いたおかげで「業」自体に良い/悪いはないと知ることができた。
基本的に悲観的な私は「一切の業を成すの」という歌詞に悪いイメージを持っていたが、そうとも限らないようだ。

暗いと思っていた歌詞に明かりが灯る。もしかしたら人は完全に諦めることなんてできなくて、いつだって希望という光を見出してしまう生き物なのかもしれない。
おばけになりたいと思う日もあるけれど、死ぬまでは人間として生きてみよう。

LUSHのおばけ