……「次の章、絶望。次の章、自由。悲嘆。」バフチンは、小説を、叙事詩とも悲劇とも対立させて、集団的あるいは配分的な統一性をもはやもたないものとして定義した。人物たちはまだこのような統一性によって唯一の同じ言語を話していたわけである。反対に小説は必然的に、匿名の日常言語を、ある階級、ある集団、ある職業の言語を、またある人物の固有の言語を借用するのである。したがって、人物、階級、ジャンルは、作者の自由間接話法を形成し、同時に作者はそれらの自由間接的ヴィジョンを形成する(彼らが見るもの、彼らが知っていること、知らないこと)。あるいはむしろ人物たちは作者の言説―ヴィジョンにおいて自由に自己を表現し、作者は人物たちの言説―ヴィジョンにおいて、間接的に自己を表現する。要するに匿名の、あるいは人称化されたジャンルにおける反映が小説を構成し、その「多言語主義」、その話法、そのヴィジョンを構成するのである。ゴダールは、小説に固有の力能を映画にもたらす。彼は自分自身に、仲介者として様々な反映のタイプを与えるが、そうした仲介者たちを通じて、<私>はたえず他者になるのだ。それは折れ線であり、ジグザグの線であり、作者と彼の人物たちと、彼らの間を通過する世界とを統合するのだ。こうして現代の映画は、三つの観点から、思考と新しい関係を結ぶ。イメージの間に挿入されるある外部のために、イメージの全体と全体化を消滅させること。自由間接的な言説とヴィジョンのために、映画の全体としての内的モノローグを消滅させること。この世界への信頼だけをわれわれに委ねる断絶のために、人間と世界の統一性を消滅させること。