FAIRWAY
クリスマスが好きだが、クリスマスが嫌いだ。
少し肌寒くなってきて、金木犀の香りがする季節になってくると毎年頭の中はクリスマスで埋め尽くされる。
これからの季節はどうしても感傷的になってしまう。モミの木にイルミネーションの煌めき。街に溢れる恋人たちの喧騒と家族の団らん。たまらなく好きである。寒い中、心温まる愛情。せわしない街の中の人々の感情の機微。
しかし、こんなイメージは映画や名曲の中にあるもので自分のものになったことはない。
僕が好きなのはクリスマスという概念であって、クリスマスが身近になった途端、クリスマスが怖くなってしまう。
しかし、思い返してみるとクリスマスは今までの僕の身近にそう、確かに存在していた。恋人とプレゼント交換もしたし、クリスマスマーケットにも行った。なんだったらクリスマスシーズンのディズニーランドにも行った。傍から見たら、クリスマスを楽しんでいると思うだろう。確かに楽しかったが、自分の思うクリスマスとはかけ離れているような気がして「クリスマス」ではないような気がしていた。
何もクリスマスに限った話ではない。男女での騒がしい飲み会、少しお色気のある展開。”エモい”セフレとの恋愛。気だるい夏。キラキラした恋人との冬。男同士の熱い友情。男女7人夏物語。ドライブに旅行。類型化された大学生の生活。自分には縁がなかったと思っているし、永遠にこれらの亡霊に囚われているのは間違いない。しかしこれも思い返してみると、その濃淡に他の大学生との差はあれど、一通りは経験していたことに気づく。
そうすると、このなんともやりきれない感情はもっとこうした"エモい”ことをしたかったからなのか。物足りないからなのか。確かにそうした気持ちもあるかもしれないが、多分もしこんな"エモい”ことを頑張ってもっと経験したとしても僕の心の物足りなさは埋まらないだろう。
どこかに自分の理想とする大学生生活があって多分そこには自分が到達することはできないし、そもそも自分の性に合っていない。だけど、フィクションかもしれないけれどそんな生活を送っている大学生がいて、実際にそれに近い生活を送っている人が身近にいる。隣の芝が青く見えすぎている、さすがに。
クリスマスも本質的には同じだ。世の中には腐るほどクリスマスのキラキラカップルエピソードが溢れているし、フィクションなら今まで嫌になるほどラブコメ映画を観てきた。クリスマスにはクリスマス映画を独りで観て、クリスマスソングを独りで聴いて気分を上げたりしていた気がする。いつまで経っても年齢不相応に白馬の王子様が来ることを信じているような女性を馬鹿にしてきたが、自分もそんなに変わらないことにも気づき始めた。クリスマスの理想、ひいては恋愛の自分なりの理想を永遠に求めているのかもしれない、と。自分もクリスマスの理想があってそれを実現できないように感じてしまうから、たとえ近くに本当のクリスマスがあったとしてもそれに気づかず、色褪せてしまうように見えてしまう。
そしてこれもただ理想が高すぎるという問題だけではないような気がするのだ。責任を負いたくないという点に尽きるだろう。自分は昔からそうで、そんな女々しいところも含めてクリスマスが嫌いなのかもしれない。大いなる力に限らず、何事にも責任は伴う。クリスマスに恋人と過ごすにしても、まずどうやって過ごすのかから始まり、諸々の予約やプレゼントの内容の検討などやるべきことに溢れている。キラキラしたクリスマスはこうしたものの積み重ねの結果であり、これらから逃げた軟弱者が理想のクリスマスを語ることさえおこがましいが、確かに僕はここでいう軟弱者だろう。相手が何をしたら喜んでくれるか、熟考も相談もせず独りで考えがまとまらなくなって逃げる。そんなことの繰り返しだ。話は回るが、だからこそラブコメ映画は手頃なのだ。現実から逃げて何も考えずに理想を追体験できる。
確かに理想が高くなることによって現実が色褪せてしまうこともあるが、同時に現実と責任を持って向き合わないことによっても現実は色褪せてしまう。
フィクションという安心を買えば、半永久的にそこにいられるがどうしようもなく退屈だ。傷ついた先に安心を買うことだってあるかもしれない。だけど、きっとそれは今じゃないんだろう。まずは思いっきり傷つけばいいんじゃないか。そういや、傷つくことからも逃げていた気もする。とりあえず今は1つずつ現実と向き合っていかなければならない、色褪せて、負ける前に。僕はそう思う。