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【音楽鑑賞】春泥棒/ヨルシカ
ヨルシカの中で一番好きな曲が『春泥棒』だ。春泥棒を初めて聴いたのは大成建設のCMだった。CMには「♪ヨルシカ」としか記載されてなくて、この曲いつ出るのかなとか、映像制作が新海監督なこともあって、次の映画主題歌はヨルシカとタッグを組んでほしいなとか、色々想像しながらフルで聴ける日を楽しみにしていた。
CMでこの曲を聴いていたときは、とてもさわやかで、温かい曲なのだろうと想像していたが、YouTubeで公開された楽曲を聞いた時、ただ温かく、さわやかな曲というだけではなく、重いテーマがあるのだと感じた。その後、ヨルシカのオフィシャルTwitterから、この曲において桜は命を、風は時間を意味しているという内容が投稿され、この曲は想い人の死を書いている曲なんだと分かった。
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「残りはどれだけかな、どれだけ春に会えるだろう。」
「春がもう終わる。名残るように時間が散っていく。」
「花開いた今を、言葉ごときが語れるものか。」
「花見は僕らだけ。散るなまだ春吹雪。」
歌詞からひしひしと男の妻を思う気持ちが伝わってきて、つらいと思うと同時に、なんて純粋で深い愛なのだろうと感じた。特に「言葉ごときが語れるものか」という歌詞が痛いくらいに男の感情を伝えてくる。
ヨルシカの楽曲を聴く方はすでに知っていることと思うけれど、ヨルシカはしばしば、言葉に対する矛盾した感情を歌詞にする。「言葉以外何にもいらない(雨晴るる)」「全部消えろ、声も言葉も愛の歌も(雨晴るる)」「言葉以外は偽物だ(レプリカント)」「言葉で全部表して(レプリカント)」「言葉とかいらないよ(冬眠)」「何を言おうにも言葉足らずだ(靴の花火)」「言葉じゃたりない(準透明少年)」etc...そしてここでの「言葉ごときが語れるものか」。自分の感情は言葉でしか表すことができない。でも、ただの「ありがとう」や「あいしてる」では私のこの感情を表すことなどできない。この思いを伝えたいのに伝えることができないという歯がゆさは、私にもいくらか経験がある。春泥棒では、妻の死を止めることができないという絶望感の中に、今一時でも妻との時間を過ごしたいという男の感情が沁みてきて苦しくなる。
一方で、私は春泥棒のMVで別の見方をしてしまい、どちらかというとこちらの理由で苦しくなった。春泥棒の「歌詞」は男目線で書かれているが、「MV」では妻目線の映像が流れる。このMVを見た時にふと思い浮かんだのは、太宰治が言った「待つ身がつらいかね。待たせる身がつらいかね」という言葉だ。(実際に太宰がこの言葉を発した状況はクズじゃね?となるが、詳しくは小説『太宰治』もしくはWikipediaを参照してほしい。走れメロスはこの時の太宰の状況から生まれた小説とされている)「遺される方がつらいか、遺す方がつらいか」わたしは春泥棒のMVをみてこの言葉を思い浮かべた。
もし、体が消えても存在し続けることができるのだとしたら、遺された方だけではなく、遺してしまった方のほうがつらいのかもしれないと思った。苦しんでいる姿は見えるのに私には何もできない。そしてその人が苦しんでいるのは他でもない自分のせいなのだ。本当につらい。何も言えないし、何もしてあげられない。こんなにつらいことがあるか。遺された方も、遺した方も後悔ばかりだ。
人生で桜を見れる回数は数十回程度。誰にでも平等に死は訪れる。いつ訪れるかわからないその日がいつ来ても後悔しないために、大切な人への感謝の気持ちや、愛は伝えていけるように強くなりたいと感じる。それがたとえエゴだったとしても。
余談ではあるが、大成建設のCMでは、病院の建設をしている青年が主人公として描かれており、手紙を広げると中に挟まれた桜の花びらが風に舞うという表現がある。そしてひらひらと舞い落ちる桜の花びらを青年が落ちないように手のひらでキャッチする。病院を建設する青年が、桜が落ちないようにするのだ。ヨルシカのオフィシャルツイートをみて、桜の意味を理解すると、ヨルシカの歌詞の繊細さと、それを描く新海監督の表現力に改めて感銘を受けるCMだ。