わからないことがわからない


最近、思っていることを全てまとめてみました。

箱根に行ってきました。
箱根の森彫刻の森美術館はとても美しかった。
今まで平面的な絵画を見たり、
部屋という空間に仕切られた中での空間アートは見てきたが、不規則な自然の中で
変化しながら普遍的な部分を兼ね備えた
アートは心に刺さるものも多かった。

普遍的なものと変化するものが生み出す
立体的な夢幻の空間。

その中で一番心に刺さったのは写真の
「終わりのない対話」

二つの不思議な形の物体が一つの視点を
中心に風によって前後に不規則に動き続ける。
このアートは何を伝えたいのだろうか、と
止まって考えてみた。

考えた結果、僕の中には確かにこれは
「終わりのない対話」だとわかった。
僕らに遠回しに伝えながらも一度その考えを
掴んでしまえば忘れさせない。
それは僕らに気づきの余白を与えてくれているからだ。

僕には不規則な形の二枚の曲線を描いた板が
人間の耳に見えた。
誰かの話は僕らにとってのある種の刺激。
その刺激によって僕らは常に
「耳を傾け続ける。」慣用句の視覚化。

対話とは言葉を出すことではなく、
耳を傾けて聞くことにあるのではないのだろうか、という作者の気持ちを僕なりに想像して見ることができた。

もしかしたら違うかもしれないし、
この作品を見て感じることはきっと十人十色
それを話し合うのが楽しい。
僕はその話に必ず耳を傾け続けたい。

最近、僕の友達が音信不通だ。
去年の年末、彼女に誘われある発表会に行った。その時に「来てくれたお礼に今度ご飯奢るね。」と約束した。
年始にはあけましておめでとうとLINEをした。
そして、あけましておめでとう、と来た。それ以来、連絡もしていなかったが、半月ぶりに食事に誘ったが、約1ヶ月連絡がない。LINE、Instagram。どちらでも送ってみたが、何もなかった。

僕のことが嫌いならもうそれでもいい。
それよりも友達に何かあったのかな、と不安になる。何度か最悪の結果も思い浮かべた。
もし、まだ声をかけられる場所にいるなら、
声を上げられる力がひとしずくでも残っているのなら手を差し伸べたい。
もし、手を差し伸べられるのさえ嫌なほど
僕のことを嫌いになったのならば声だけでも上げて欲しい。

僕でよければ話を聞きたい。
箱根でその友達のことを思い出した。
僕は来るもの拒まず、去るもの追わず。

最近、辛いことや心配事があると
「死」という選択肢が簡単に頭に浮かぶようになってしまった。それは僕に一度、死がで伸ばし、僕のそばまで近づいたからだろう。
僕にとって身近なものになってしまったが故にその選択肢が少しずつ少しずつ近づき始めている気がする。

だからこそ、他の人にもその選択肢が
近づくのではないか、と心配になる。
その心配がまた僕に奴を近づける。
この「死にたさ」を手懐けていくことが
僕のこれからの最大課題だろう。

僕はまだ生きていた方が幸せになれる気がするので頑張ります。

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