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【自然の郷ものがたり#17】風景を変えれば、意識も変わる。地域を変える「ひとりひとりの力」【聞き書き】

弟子屈町の発展の礎を築いた川湯温泉。

かつては年間50万人以上もの宿泊客が訪れ、大型ホテルが軒を連ねていましたが、今では廃屋のホテルも目立ちます。そんな川湯の温泉街を魅力ある場所にしたいと活動を続けている人たちがいます。

取り組みの中心となっているのが阿寒摩周国立公園川湯地域運営協会。これまで見向きもされなかった温泉が流れる川の清掃活動や遊歩道の整備によって川の姿が生まれ変わったのです。活動をけん引してきた地元出身の宮﨑健一さんはバーのマスター、金子高志さんは川湯温泉駅前で酒屋を営んでいます。温泉川のほとりで、これまでの活動や川湯温泉への思いをお聞きしました。

みやざき・けんいち(写真右)/1977年、北海道弟子屈町川湯温泉生まれ。弟子屈高校を卒業後、4年間にわたり自衛隊で勤務。その後札幌での調理師勤務を経て、2005年に川湯温泉へ戻り、ダーツとお酒の楽しめる店「Darts bar TANTO」を開業。川湯地域運営協会では副会長として、川湯温泉の振興に尽力している。
かねこ・たかし(写真左)/1979年、弟子屈町生まれ。釧路商業高等学校卒業後、札幌商工会議所付属専門学校で販売士の資格を取得。電気店勤務などを経て2004年春から川湯温泉駅前で家業の酒屋「株式会社西沢商店」を継承し、現在は代表取締役。川湯地域運営協会では宮崎さんとともに副会長を務める。

※この記事はドット道東が制作した環境省で発行する書籍「自然の郷ものがたり 2」に集録されている記事をWEB用に転載しているものです。

賑やかだった川湯の街で、温泉街とともに暮らしてきた

宮﨑 生まれはここ川湯温泉で、温泉街の真ん中に実家があって、そこで育ちました。子どもの頃の川湯温泉は毎日お祭りのようで、常に賑やかでしたね。夏のピーク時は車が走れないほど人がたくさんいましたから。その当時って、お客さんは浴衣で外を歩くんですよ。だから一日中、カランコロンって下駄の音がするんです。飲食店も多くて、「川湯温泉は眠らない街」と言われていましたが、一晩中響く下駄の音と笑い声とケンカの声とで、夜はうるさくて眠れなかったですね。

金子 僕が生まれたのは弟子屈市街で、3歳から川湯駅前に来ました。父が酒屋を経営していまして、駅前から川湯の温泉街まで毎日配達に行くんですけど、トラックの荷台がビールの中瓶40ケースくらいで全部埋まるんですよ。先に中瓶だけ配達して、戻ってきてから再度他の商品を運ぶという、そのくらいホテルにはお客さんが来ていました。僕自身も水泳をやっていたので川湯の街中のプールにはよく来ていましたが、温泉街の中で遊ぶということはなかったですね。僕のいた駅前は落ち着いた雰囲気で、温泉街は都会っていうイメージ。だから近いけれども隣町みたいな感覚でした。

宮﨑 確かにね。川湯駅前は、子どもの頃に行った記憶がないなあ。そもそも事業をやってる親なんて、子どもに構っている暇もなかったですしね。学校から帰ってきても、「隣の居酒屋でご飯食べといで!」って親に言われて、そこに行くとまたさらに隣の家の子どもが来てたりとか。

金子 みんなで晩御飯ですね(笑)。うちも、ご飯を作る人を雇っていたりして、みんな仕事の合間にそれぞれ食べる感じでしたから、家族で食卓を囲むなんて正月くらいしかなかったです。観光地の住民って、どこもそんな感じだったのかなと思います。

自分たちの手で、自分たちの町を変えているのだという実感

宮﨑 今、副会長を務めている阿寒摩周国立公園川湯地域運営協会(運協)は、1980年に発足し、国立公園内の特に川湯地域において、清掃活動をはじめとする自然や環境の保護とつつじケ原の朝の散策路利用などの増進を図る団体なんです。会員は「川湯温泉の観光事業者・団体」っていう規約があるので、みんな宿泊業だったり、飲食店だったり、川湯の中の事業者ですね。でも加入前に外から見ていたときの印象は、なにをやっているのか不透明で、街をよくしようとする組織なのにゴミ拾いと朝の散策しかやらない……もったいない。なにかもっと街を良くすることができるんじゃないかと思い、俺も入るよって、10年くらい前に加入しました。お客さんにもっといいものを見せたいし、伝えたいし、川湯の街もきれいにしたいですから。ちなみに今の運協で自分から「入りたい」って言って加入したのは俺だけなんですよ(笑)。

金子 やる気まんまん(笑)。自分は健一さんとは違って、入りたくて入ったわけじゃなく、仕事の付き合いで加入しました。2007年ごろですね。

宮﨑 今、運協で一番力を入れているのは景観づくりです。中でも、温泉川の整備には特に力を注いでいます。このあたりは、子どもの頃からみんなの集まる場所でした。でも温泉の川って微生物がいないので、落ち葉とかも分解されないんですよ。だから以前は溜まったものがヘドロっぽくなって、臭いもひどくて汚かった。
たしか2014年ごろだったと思うんですが、川湯温泉の夢を描く機会があって、そのときに要らないホテルを壊して、川もきれいにして、遊歩道を作って人に見せようという話になったんです。でもそのときは単なる構想でしかなかった。壮大すぎて、本当に実現するわけがないと心の中でみんな思っていたんですね。
その構想が一気に進んだのが、忘れもしない2020年9月3日でした。運協のメンバーはもちろんだけど、住民、役場、環境省など何十人も集まって、川の中に放置されていた樋やパイプを全部撤去した。動きはじめるまで時間がかかったけど、いざ動きだすと、「やっぱりいいよね!」というのが自分たちも再確認できて、その場にいた全員が、もっともっとこの活動を進めようという気持ちになったんです。

金子 温泉川の整備も、当初は「やっても無駄」という人も多かったですし、なかなか同じ方向を向くことができていなかった部分があります。でも清掃によって川が変わるとか、そういういろいろなことをやってひとつの形ができてくると、少しずつ空気感は変わってきますよね。地域住民や事業者に「ここはお客さんを招き入れる街なんだ」っていう観光地としての意識が生まれてきたのを感じます。
清掃の件もそうですけど、川沿いを屈斜路湖までトレイルルートにしたいっていう案が出てきたときに、いやいや長いし無理だろってみんな思っていたんです。でもそこから少しずつ積み重ねてきたことが今ではなんとなく形になってきた。これもまさに意識が変わる新しいツールになってくるんだろうなと思います。

温泉川の整備事業の様子

宮﨑 そうですね。地域の会議の中では他にも、温泉川を通って屈斜路湖まで屋形船を流そうっていうアイデアもあったんです。これもそのときは夢物語だったけど、実際に今はもう倒木とかも全部撤去しているので、やろうと思えば川湯の街の中から屈斜路湖までボートで行けるんですよ。

それぞれの役割が歯車になって、活動が回りだす

宮﨑 去年、温泉川のほとりをライトアップしたんですよ。それを見たときにすごく感動しちゃって。たかだか遊歩道が整備されてライトアップした、というだけなんですけど、「うわ!川湯変わった!すごい!」ってぞわぞわっとしたんです。心のどこかで、本当にここまでできるんだろうか……と思っていた部分もあったので、それが現実になったことに感動しました。今では温泉川のほとりを普通に街の人が歩いているんです。今まで見向きもされなかった川、こんなところに川があったの?というレベルだったのに、たくさんの人が歩いてる。これって本当にすごいことなんですよ!
俺は、自分たちの世代が動きだすことによって、街がどんどん変わっているのを今見ている。やらされているのではなく、自分たちがやりたいと思い描いていたことが、みんなの協力で形になっていくのが面白いんです。だから、原動力はなにってよく聞かれるけど、街が良くなるのを見ていて楽しくなっちゃったんですよね。こんなこと、昔の俺なら絶対言わないですけどね(笑)。

金子 僕は、運協も含めていろんな活動をしているんですけど、性格上どこかとどこかがつながった、みたいなことがとても嬉しいんです。例えば最近、川湯温泉の僕らの世代と、弟子屈の人たちがイベントや飲み会を一緒に開くようになったんですよ。昔から、弟子屈の人たちは住民のほうを見ていて、川湯のほうはお客さん相手の目線なので、それぞれの考え方が違う部分があったんです。でも僕らの世代ってそんなこと言ってられない。人も少なくなってきているし、仲もいいんです。
これからは弟子屈町全体で協力しあってイベントもできる。だからほんとに今後が楽しみですし、自分がそのパイプ役になれたらいいなと思っています。僕、オリジナリティがないんで、そういうオリジナリティの部分は健一さんに任せて(笑)。

宮﨑 いや、俺もコミュニティとか人をつなげるっていうのはできないんで、そこは高志に任せて(笑)。運協も突っ走るだけでは絶対だめで、高志がみんなをつなぎとめててくれるから活動できてるんです。

金子 運協のこれまでの活動の中で、先頭に立って責任もってしっかりやれているのは健一さんが初めてなんじゃないかと思います。健一さんのように川湯温泉育ちのもともといる人が一生懸命やりだすと、それを見ている人は必ずいるので、街の流れは変わってくる。やるぞ!っていう空気に確実に変わってきていると思います。まあ、ちょっと強引に引っ張っていくところもあるから、「まじですか!これやるんですか!」みたいなのもありますけどね(笑)。でもなかなかこういう人はいないです。

宮﨑 俺は運協に入った後に、それまで断り続けていた料飲店組合も入ったし、観光協会にも入った。以前は「あいつはなんなんだ。町のことなにもやらない」ってみんなから白い目で見られていたんですけど、街を変えていくには自己満足じゃダメだ、ホテルや飲食店だけ頑張ればいいわけでもない、いろんな方向からアプローチするのが大事なんだってやっと気づいたんです。

川湯温泉出身ということをみんなが誇らしく思えるような地域に

宮﨑 川湯温泉は、地名に「温泉」って入っているとおり、やはり温泉地なんです。だから自分の原点でもある「温泉地・川湯温泉」っていうのをしっかり復活させたいなと思っています。しっかりした温泉、宿、サービス、周辺環境も含めて誰が来てもいい温泉街だと思ってほしい。温泉川の整備もそのためです。生まれ育った温泉街が、このままずっといい街であってほしいなと思います。
ここには観光業以外の方もたくさん住んでいるんですけど、川湯に生まれ育ってまた川湯に戻ってきたいとか、自分の子どもを川湯の学校に通わせたいとか、みんながみんな思っているわけじゃない。俺らは目標があるから頑張っていられるけど、川湯じゃなくてもいいと思っている人がいっぱいいるんですよ。そういう人たちの意識も、やっぱり川湯温泉にいて良かったなと思ってもらえるように変えていきたいですね。

金子 僕は観光に携わっている人間なので、観光業とそれ以外の業種、農業や一般の町民の方などとの間にある壁みたいなものを取っ払えたらいいなと思っています。そのためにも、温泉川の整備や廃屋の撤去など、観光での成功事例のようなものを見せないとだめだと思うんです。成果が上がれば他の人たちの見る目も変わります。現に、一般の町民の方が温泉川のほとりを歩くようになったり、街の雰囲気も変わってきています。そういうことの積み重ねで、こっちに住みたいという人も少しずつ増えてくるでしょうし、少しずつ人口も戻ってきたりするのかなと思っています。
先日、川湯の中学校の文化祭に行ったときに子どもたちの発表を聞いたんですけど、今の川湯温泉について「もっとこうしたほうがいい」「ここを変えたほうがいい」って、中学生もすごく見ているし考えているんですよ。そんな彼らが大人になったときに、僕は川湯温泉出身ですって胸を張って言えるような、そんな街にしていけたらと思います。

取材・執筆:木名瀬佐名枝
撮影:崎一馬

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