【九郎とは】 大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」 第20話
この二言で幕を開け、幕を閉じた40分だった。
どちらもきっと、義経が欲しかった一言。
業と同量の頼朝の悲しみが、伝わってくる。
血も涙もない采配も、塗りの首桶を抱きしめて泣き崩れるのも、どちらも本心。でも、公の自分と私的な自分とが相いれなかった時、頼朝は大義を選んだ。
これで頼朝は、益々死ぬことを許されなくなってしまった。それはそれで、死よりもしんどい道だろう。
モーツァルトのレクイエムを目の当たりにした、サリエリ景時。これ以上の戦略、自分には思いつけない。しかも相手はもうこの世にはいない。それを上回れると証明できる機会は、もう永遠に来ない。
その策を見せることで、義経は鎌倉を守ろうとする。俺のような天才、他にはいないだろうから、この策に備えてさえいれば、兄上の拠点は磐石です、と言祝いだ。兄上を最後まで愛し、信じていた。
その上で、策を託したのは、景時だった。「信じる」とは、時に暴力に近い力を持つ。
人を信じすぎないようになったと言っても、兄上のことは最後まで信じていたし、兄上率いる源の鎌倉と、秀衡が愛した平泉は最後まで守ろうとした。
どちらも、間もなく消えてしまう。その全てに義時が絡んでくる。どれだけ目の前で人が死のうが、顔色を変えることなく、帰宅すればマイホームパパな顔を作れる義時は、もう昔の義時ではない。
秀衡の舞が神々しくて、呼吸を忘れた。呼吸を忘れても大丈夫な尺だったのがむしろ残念だ。もっともっと見ていたいのに、この人も既に無い。
大地を掬いあげ、月に捧げる。義経もまた、この地から、月に帰る。清々しい表情だった。舞は言葉以上に思いを伝達する力がある。
秀衡の舞が人外の舞なら、静御前の舞は、丹田からの覚悟の舞。誰であれ、矜持を持つ人の生き様は、美しい。たとえその選択に自分が同意できなかったとしても。
静のことも、兄上のことも、そして最後には里のことも、全てを脳内整理してから義時に話すべきを話した後、彼には目もくれずに木戸の覗き穴から外を見る義経。
その目に映ったのは、樽の甲冑を着込んで大魔神のごとくに立ち往生している弁慶だったろう。
一つ一つのシーンのどこを切り取っても、怖いほど美しい回だった。
丸っと静止画で紙芝居にしたら、どのコマでも語り尽くすことができるだろう。人によって様々な解釈が出るだろう。
終わってから暫く放心してしまった。圧倒的なものを見た時、心はその場から動くことを拒絶する。
来週なんて来なければいいのに。
明日も良い日に。