事実からコミュニケンションする
疲れてイライラしてる人にあう。
関係性が深い人ほど、「何かあった」の予想が細かくなる。
でも、それはあくまで予想。
わたしが予想しなくとも、普通に話してるうちに、出したい不満は出てくる。
出てきた時それは事実になる。
感情の事実。
たとえば「最近つらすぎ」と言われて、
最近辛いと思ってるという事実ができる。
別に他人と比べればそうでもないかもしれない。
「わたしの方が絶対大変だけどね!」と思ってしまうかもしれない。
けど、その人にとって「最近つらすぎ」と思ったことがあるということは事実になる。
いいや、それも違うかもしれない。
【『「最近つらすぎ」と思ってる』と言った】ことが事実。
それは、実際今までそう思ってたことはなかったかもしれないし、今会話の中で「最近」という言葉が追加されたのかもしれない。
でも、【『「最近つらすぎ」と思ってる』と言った】ということに変わりはない。
何事も無駄に期待せず、逆に予想して「可哀想」「大変そう」と思わない。
事実でないことを推測するのとに頑張れば頑張るほど、その推測が事実でない時、感情が激しくなる。
心配して心配して、事実を知った時に
「なんだ、じゃあ大丈夫じゃん笑笑」
と思うかもしれない。
でも、その人にとっては本当に大変なことかもしれない。
想像より深刻な事実がそこにあった時、
「えぇええ、まじ...やっば...大丈夫...?」
と思うかもしれない。
でも、当人はそれほど深刻だと思っていないかもしれない。そして、そんな時、過剰に心配することは正解??
でも、多分。
事実として受け入れられなくなると、怒りに変わる。
「わたしには理解できないけど、この人は疲れてる。」と事実として受け入れられていたものが、
本当に全く理解できない時、怒りに変わるのかなと。
だから自分も人とコミュニケンションするとき、できるだけ自分の思った事実にできるだけ正確に、感情を構築したい。
それは、一般的な「感情を持つ」というのとは少し間違う。
事実はこう。
だからこう。
いやでも、今のわたしの感情は別だなぁ。
それでもいい。
そこが伝われば、何か相手の理解につながるかもしれない。
そして、そこまで伝えて、相手が怒りを感じたり、無関心になったりした時
諦めがつかないだろうか
あーここまでわたしについて話してだけど理解できないならしょうがないなと
だって他人なんだから
諦めがつけば、
そんなに感情的にならないと思うのです
それはネガティブから生まれてるかもしれないし、ポジティブから生まれてるかもしれないけれど。
だけれど、そこまでした上で、それでもわたしは感情的になりたいと。思ったのなら、そこは感情的ななればいい。
そこまで行ったら、感情的ななること自体に諦めがつくでしょう。
後から振り返った時、それをただ後悔するのではなく、あーあの時はしょうがなかったなぁと。
ポジティブでも、
ネガティブでも、
諦めがつく選択、生き方をしたい。