算命学余話 #U34「不運に強い宿命」/バックナンバー
ミハイル・シーシキンの『手紙』にはこんな格言みたいな文句が出てきます。
「家族――それは互いなしには生きていけない人間同士の憎しみ合いだ」
正月早々こんな話題でなんですが、運勢鑑定依頼をされる方の多くは人間関係にお悩みで、当方は恋愛相談お断りですから、相談内容といえば職場の人間関係か家庭の人間関係かに大別されることになります。そして家庭内の人間関係に悩んでいる人には、この格言は心に突き刺さると思います。(悩んでない人には「?」な感想になるでしょうが、それはそれで幸せなことです。)
この小説は先進国では各国に翻訳されていますから、人類に普遍的な価値観を描いた作品として評価されているわけですが、それがこんな風に家族を厳しく眺めている。我々日本人は、人間の普遍的幸福といえばまず一家団欒と刷り込まれてきたし、今でも、まさしく正月なら家族水入らずののんびりした時間を過ごすことで、家族との結びつきを再確認し、心から休息でき、正月明けの忙しい日常に戻って行けるのだと、少なくとも真っ当な家庭ならそうだと信じ込まされてきました。
グレゴリー・オステルがその真っ当さに耽溺・固執することに「待った」をかける作家であるなら、シーシキンは憎み合う家族であっても互いなしには生きられない人間の業というか矛盾について、これを否定せず直視することを提唱する作家です。家族がやさしい愛情だけで成り立っているわけではないことは、どうやら世界標準であるらしいのに、日本はこうした家族関係を醜いものとしてフタをして隠す傾向にあり(その最たるものが朝の連続テレビ小説。私は絶対見ない)、円満家庭礼讃という一般的風潮により、円満な家庭に恵まれない人たちが自分たちは悪い人間ではないのかといらぬ劣等感を抱く破目に陥りがちです。
そんな必要はありません。あなたは悪人でもなければ異端でもない。同じような境遇の家庭はそこら中にひしめいています。無理して円満にしなくても人間は幸せにはなれます。幸せの基準は家族に限定したものではないことは、算命学では周知のことです。問題になるのは、あなたがそんな自分を隠そうと努力したり、劣等感から転じた悲劇性に喜びを感じてしまうことです。そうした歪んだ努力や悦びは、運勢を陰転させる元になります。
いずれ鑑定する側の技術以前の心得や依頼人の傾向について論じたいと思いますが、今回は前回に続き蔵干の活用術について話を少し掘り下げたいと思います。
前回の余話でサンプルに挙げた、新生児取違え事件の当事者の宿命については、ショッキングだったとの感想が寄せられ、私も算命学の理論があれほど顕著に表れた宿命も珍しいと舌を巻きましたが、何度も述べているように、同じ生年月日の人間は掃いて捨てるほどいますから、彼らと同じ日に生まれた大勢の人間が同じく取違えに遭ったわけではありません。
ただ、あの宿命は、養子に行ったり家族や環境に大幅な変化があってもそれなりに逞しく生きていける人間を作るものであり、今回の事件は双方の家庭に経済格差がありすぎたから不幸な事件として扱われたに過ぎません。あの宿命自体は不幸を約束するものではないのです。蔵干との干合のある人や雲竜型に該当する人は、複数の顔を持つという意味が課されますから、生まれた時に取違えられるという危機をすり抜けた多くの人は、その後の人生で、その持って生まれた特技を活かして複数の事業を同時にこなす人や、マルチ芸人になる資質のある人、或いは結婚詐欺まがいの多情な人生を送る人になると判断するのが妥当です。幸か不幸かは生き方次第で決まるのです。
蔵干についての理論は、算命学の一般書ではあまり論じられていないようです。技術が地味ですし、ビギナーにとっては陰占より「〇〇星」という名称で飾られた陽占の方がビジュアル的にも想像しやすいという点も否定できませんが、ここでは「天干連珠格」と呼ばれる格法と比較しつつ、蔵干が宿命に及ぼす役割について考えてみたいと思います。
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