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それを経験しているのは、それを前提にしているからだよ

かつて会社勤めをしていたとき、めちゃくちゃ頭のキレる上司が言いました。

「俺の特技は四葉のクローバーを見つけることだ」

どちらかというとかっこよくあることに重きをおいているようなダンディな上司から四葉のクローバーというメルヘンチックな言葉が出てきて私は驚いたのですが、彼は私がその特技に驚いたと思ったようで、こう続けました。

「コツは簡単で、さと子ちゃんにもできるよ」

「どんなコツですか?」

「四葉のクローバーはあると信じて探すことだ」

「???」

当時の私は、まあ、言わんとすることはわかる、けど、なんかちょっと非科学的な、精神論的なやつね、と思っていました。

でも、今はわかります。

それ、前提を経験するってやつだ。

人は持っている前提を経験するのだ。

前提が変わると行動が変わる

実はその後に、私自身も前提を経験するという体験をしたのでした。

あるとき、ふざけて、「私にはパーキング(駐車場)の神様がついている」という設定にしてみたら、それはもう驚くくらい、パーキング運が上がったのです。

駐車スポットが空くのを待つ車がうようよと列をなしている中で、突如、目の前に人が現れ、「私、今から出るから、ここに入るといいわ」と言ってもらえたり、無料駐車場が埋まっているから諦めて有料パーキングに行こうとした瞬間に目の前の車が急に出て行ったり。

同乗している夫にも「パーキングの神様がいると信じざるをえない」と言わしめるくらいの出来事が頻発し出したのです。

でも、それって、別に不思議じゃないんですね。

必ず駐車スポットは見つかるという前提でいるようになったから、以前ならとっとと諦めていたところをしつこく探すようになっただろうし、そもそも今まではきっと混んでいるからと最初から行かなかったようなところにも行ってみるようになった、というふうに自分で意識していないところで行動が変わった結果だと思うんです。

中には、もちろん、パーキングが見つけられなかった経験もあるのですが、「こんなにパーキング運がいい我々でもパーキングできないってことは、今日はやめておけってことだ」というふうに、あくまでも基本はパーキング運がいいという前提で解釈するようになったんです。

四葉のクローバーでいえば、絶対あると信じて探すことで、ないかもと思っているときとは見る部分、探す部分が(意識できないレベルも含めて)変わっているということだと思います。

それでいうと、逆の仮説も成り立ちます。

今、自分が経験していることを観察すれば、自分が持っている前提が何かが見えてくるんじゃないか。

自分に都合のいい前提に置き換えてみる

私自身の話をすると、最近、「私が面白いと思うことはなかなか人にはわかってもらえない」という前提でいたということに気づいたところです。

その前提を持っていた結果、何が起こっていたかというと、「伝えたい」という思いが発酵、いや腐敗して、「わかってほしい」になっちゃっていた。

コミュニケーションの基本でいうと、「伝えたい」という思いから、どうしたら伝わるかを考えるところまでは私の発信、つまり私の責任の範疇だと思うんです。

でも、「わかってほしい」になると、うっかり相手の受信にまで踏み込んでいるってことになるんじゃないか。

それで、「なんでわかってくれないの?」って、言葉を重ねて重たさを増して理解を求めて迫っている…とりわけ文章においてそれをやっていたんじゃないか。

それ、うざくない?

もちろん、本当のところはわからないし、わかりようがないけど、そこに気づいたとき、ちょっとスッキリしたんです。

「私が面白いと思うことは、きっとみんなにも面白いはず」

それが本当かどうかではなくて、そういう前提にしてもいいんじゃないか。

そう考えたら、スルスルと言葉がまた出てくるようになったんですね。

まあ、言葉がスルスル出てくるということ以上のところを目指したいのですが、まずは何か出てこないことには詰まる一方なので、ひとまずはこれでよしということにします。


人生は壮大な実験だ、というのはアメリカの思想家、ラルフ・ワルド・エマーソンの名言ですが、私もそんな気が、年々強くするようになってきました。

とはいっても、自分の安心安全を脅かす可能性のある実験にいきなり挑むのは上級者すぎるので、たとえば「四葉のクローバは絶対ある」「駐車場は絶対見つかる」みたいにどっちにしても遊びだと笑える範囲で、前提を経験する実験をすることを個人的にはおすすめしたいです。