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Non-judgmental approach①

仏教を一言で表すなら「空」だとしたら、
天外理論は「non-judgmental approach」と「鳥の瞑想」が真髄だと
私は思う。

この10年、前半は天外瞑想、
後半は「non-judgmental approach」「鳥の瞑想」
そして「スートラ瞑想」で私の意識は変わっていった、と感じる。

non-judgmental approach、「良い悪いの判断から離れる」とは、
例えば、「Aさんが嘘をついた」という事実に対して、「Aさんは悪い人だ」と判断する、この「判断から離れる」、というワークです。(「日本列島祈りの旅1」by天外伺朗)

この「良い悪いの判断から離れる」という天外ワークを続けてきた感想。

①自分について深く知ることができてきているような気がする。

例:Aさんが差別的な事を言った→Aさんって最低(←この判断をそぎ落とす)→ある時自分が差別してることに気づく(なんだ、ミャンマー人かと思った私)→私って最低(←この判断をそぎ落とす)

例:Bさんが偉そうな態度→Bさん最悪な奴(←この判断から意識して離れる)→ある時自分が結構偉そうな態度であることに気づく→えっ、私って最悪(←この判断から意識して離れる)

例:Cさんが金銭的にけち臭い行動をした。具体的にはめっちゃ細かい割り勘を目下の者らに強いる→Cさんドけち(←この判断から離れる)→ある時、自分が細かいお金の損得勘定をしていることに気づく→私ってケチ(←この判断から意識して離れる)
昔から自分がケチなのか気前がいいのかわからかった。生い立ちが影響していることはもちろん自覚していたつもりだが…。

例:Dさんが卑怯なふるまいをした、具体的には私の苦情を黙殺して、自分が被害者であると言いふらした→Dさん卑怯者!(←この判断から離れる)
私は卑怯者だけは絶対に許せない、自分は絶対に卑怯者にだけはならない、と生きてきた。それは父が卑怯者だったから。
ここから自分に対する深い許しと理解が得られるようになった。長くなるので後述。

例:Eさんが私に対して雑な対応をした→具体的にには、ビジネス関係で私は客、なのに丁寧に通知するべき内容をすっとばして平気→こいつ何様、最低!失礼すぎる!(この判断から離れる)
なぜむかついたのか?考えると、→私はEさんに対して、見下した態度にならないように神経を使っていた、なぜならEさんが「自分は本を読まない」とさらっと言った時、反射的に「えっ、馬鹿なの?」と思ったから。

このワークは、意識を自分の内側に向けるとてもいい訓練になる。

自分が差別的な思考をし、偉そうでケチで、卑怯者で人を見下し、比較をしていることに愕然とする。が、判断から離れる、という訓練なので、続けていると、だんだんとこういうことが気にならなくなってくる。
そういう面がもある、というだけのこと。

自分の内側のなにかが緩んで、心地よい、というか。これが自分のネガティブな部分を受けて入れるという感覚かもしれない(=統合?)。


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