覗くだけ
幽霊は喋るのだろうか?
人によっては物騒な言葉を話す生霊や地縛霊を想像したり、実は守護霊的なものがすぐ側にいて知恵を語るとかそういう類だったりするかもしれない。
なんでもありだ。
都合が良い風に今も昔もいい所をついている。
けどあってもなくても否定はしない。
けど、私の場合は少し玄関を見上げたらサッと顔を引く。
ぼんやりしていたり、適度に部屋を見たら着物姿だったり。
まあ何かと見間違えている。
霊が「う~し~ろ~」なんて丁寧に脅すとは到底思えない。
やはり人間が幽霊を引き立てている方が面白い。
けど実際見間違いでも霊がいるとしたら怖いものだ。
呪詛や呪いなんてありもしないし自己満足だ。
何故なら生きている人間がやっているから。
たまに霊なのかよく分からない何かがこれをやっていることがある。
だとしたら生前の習慣なのかも。
それは怖いけれど生き辛さとか人間関係の根深いトラブルの歴史への抵抗かもしれない。
憎しみと霊の相性は飽きる程使われている。
シンプルに「生きている奴が憎い」というだけでドラマは出来る。
理不尽だ。
けど私が見る頭は何なんだろうか?
呪えるものなら呪ってみてもいい。
そんなこといちいち気にしていては何にも出来ない。
けど幽霊はクリーチャー的なポジションだから生の人間に恨まれるよりマイルドに怖さを感じるという所に落ち着いている。
呪いという非生産な儀式はもうフィクションでいい。
幸不幸にも霊が直結するようになってホラーは限界を迎えた。
覗くだけ。
覗くだけでいい。
けど本当に映るのならカメラで撮りたい。
神話や妖怪とは明らかに違う文化として幽霊は存在していて、概念を変えてコンテンツとなった。
火のないところに煙は立たない。
今でも変化を楽しみ、あるいは適度な距離感を保つというのは四季を楽しむようだ。
まあ覗くだけの霊も見間違えかも。
もし、本当に共存していくれるのなら共に囁かな風物詩として存在しよう。
誤解がないように言えば、別にこの記事はオカルトだとかスピリチュアルとかそういうのでは一切なくて、科学でも証明されているのに絶えず変化していく文化として確立したのは興味深いなあという話です。
けど本当に見間違いだといいなあ。
リアリスト思考で身を守るのも大変です。