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八幡神を知れば歴史がわかる②聖武による入京

昨日は八幡神とは何かということで
祭神として
①誉田別命
②比売神
③神功皇后
を挙げました。
その中で比売神とは
1.卑弥呼説
Ⅱ.宗像3女神
とする説を紹介しました。

そして今日は聖武天皇と八幡神の関係を述べていきます。

頓挫した法都・紫香楽

昨日の記事で聖武天皇が
恭仁京を政治都市、紫香楽を宗教都市(法都)として聖と俗を守ろうとしたことを紹介しました。
しかし、そこにまったを掛けたのが藤原氏でした。

聖武天皇は理想(法都紫香楽)を諦め、しかたなく奈良に盧舎那仏を建造することにします。

自らの理想を手にするために行ったのが八幡神を呼び寄せ、神仏習合させることだったのです。

なぜ八幡神だったのか?神仏習合だったのか
ここに関してはよくわかりません。
それだけ宇佐八幡の力が凄かったのでしょう。
しかし、聖武天皇は大仏建立においても藤原氏に奪われていた権限(役職等)を八幡神を都に呼ぶことで少しずつ取り戻していきました。

あくまで聖武天皇が実行していたのは、藤原氏が目指す自分たちが中枢となって国家仏教により国を統治する方針ではなく、民衆など身分を超えて、皆が手を取り合い、法都を作ることを理想としていました。

法都構想を引き継いだ孝謙(称徳)天皇

聖武天皇は生前、娘である孝謙天皇に譲位しておりました。全てが大仏建立・法都建設に注がれていたようです。

しかし、聖武天皇(上皇)は亡くなったあとは聖武天皇の片腕であった橘諸兄が失脚。孝謙天皇は元々法都建設に反対であった藤原氏ラインと手を結びます。
それもそのはず藤原氏ラインの中枢は母である光明子だったからです。
そして、そこからは藤原氏のお得意のでっち上げが始まります。
皇親派であった橘諸兄の子供である橘奈良麻呂を陥れます。
歴史的には「橘奈良麻呂の乱」と言います。
これで反対勢力を消した藤原仲麻呂は「恵美押勝」という名を名乗り、太政大臣となります。

そして恵美押勝となった藤原仲麻呂は早世した長男の未亡人に大炊王(天武天皇の孫、舎人親王の子)をあてがい、彼を自宅に住まわせます。そして彼を淳仁天皇としました。

この藤原仲麻呂絶頂期においてある出来事がおこります。
760年に母である光明子が亡くなります。
これにより藤原仲麻呂は後ろ盾を失いました。
そしてこれを機に孝謙天皇は覚醒します。

孝謙天皇は帝王学の英才教育を受けていたようです。
そして聖武天皇は自分の赴くままに行動しました。
それが反藤原氏の動きであり、大仏建立であり国分寺建設であり、、、
1人の力でやるのではなくみんなの力で成し遂げる方針で物事を進めました。
そして皇位を継いだことにより、結婚もできず、子供も生むことも許されなくなった娘に自由に生きることを教えました。

その帝王学?の成果?が出たのが、光明子が亡くなったあとです。
孝謙上皇は急遽、藤原仲麻呂と対立すると同時に父・聖武が描いた法都構想を蘇らせたのでした。

法都構想のキーマン・道鏡

そして、ここで出てくるのが「道鏡」です。
よく称徳天皇の愛人であったなどと言われます。しかし、実態としての道鏡は法都構想におけるキーマンであったことに間違いありません。

道鏡が色々と批判されるのは藤原氏側の視点であることに注意が必要です。

覚醒した孝謙上皇は僧綱の役職を藤原氏側の僧から道鏡に変えます。
徐々に孝謙側の反撃が実を結び、恵美押勝の乱(764年)へと進みます。これにより藤原仲麻呂は消えました。
そして孝謙上皇は淳仁天皇を廃帝とし、自らが称徳天皇として践祚します。

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