八幡神を知れば歴史がわかる④皇統を破壊しようとした?人たち

前回、称徳天皇が法都構想を共に歩んだ法王・道鏡を天皇につけようとしたことをお知らせしました。

これはまさしく皇統を破壊しようとした人物と言えます。(あくまで本気で道鏡を天皇にしようとしていたらですが)

日本書紀の成立が720年なのでわずか50年後の世界です。
まぁ当時に皇統なんて考えがあったかはわかりません。

当時は唐という世界帝国に対して国家保障などを含む外交のために作られたのが日本書紀です。
日本書紀は日本国という国の成立過程を示し、正当性を示すものです。あくまで外向けの文書。
その日本書紀の内容が事実なのか?合っているのかは闇です。

しかし、唐に対して当時の大和朝廷は「オタクらよりもうちの方が歴史長いよ、うちは易姓革命なんてことはしないからねぇ〜」というメッセージを送ったわけです。

易姓革命については↓を

易姓革命(えきせいかくめい)は、中国の歴史において王朝が交替する際に、新王朝が前王朝の徳(道徳的な正当性)を失ったと宣言し、自らが天命を受けて正当な統治者であると主張する概念です。これは、前の支配者が天の意思に反し、不正や無能によって天命を失ったと見なされ、新しい支配者がその徳を持つとされることで、正当性が付与されます。例として、殷から周への交替や、明から清への交替などが挙げられます。

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称徳天皇は第46代と48代の天皇だったわけですが実在が確認できるのは29代の欽明天皇くらいからです。(16代履中天皇からという人もいます。)

繰り返しますが称徳天皇は父である聖武天皇から立太子・譲位されたことにより、結婚も出産もできなくなってしまいました。それゆえに、聖武天皇からは好きに生きるように言われました。
母である光明子が生きている間は光明子をたてていましたが、光明子の死後は聖武天皇の教えに従い、藤原氏の支配を離れ、法都構想に邁進。そして自らの後継者に法王・道鏡を使命。

これが皇統を壊そうとした人の1人目である「称徳天皇」です。

2人目は藤原仲麻呂

そして2人目はなんとそんな孝謙(称徳)天皇のライバルである藤原仲麻呂です。
藤原氏は天智天皇と中臣鎌足の例でもわかるように天皇とその側近となることで権力を掴むと同時に、天皇家に娘を入内させることで藤原系天皇を作ることにしました。

しかし、藤原系天皇に育てあげたはずの聖武天皇は反藤原に転んでしまいました。
そして聖武天皇(孝謙上皇) VS 皇后・光明子・太政大臣・藤原仲麻呂という形で争いが続きます。

その争いの中で、藤原仲麻呂は皇帝になろうとしました。
仲麻呂は中華思想を非常に学んでいたようです。そして日本にも前述の易姓革命の原理を持ち込もうとしたのでした。

日本書紀で日本は易姓革命の無い国だよ!と唐に伝えたばっかりなのに、中国かぶれの仲麻呂はなんと易姓革命を実施しようとしたのです。

つまり天皇家を廃して、藤原皇帝家を作ろうとしたのでした。

しかし、藤原氏というのは天皇家の側近として権力を持つというのが鎌足以降のアイデンティティでした。そんな藤原家のアイデンティティの中にあって仲麻呂も浮いた存在になったことは言うまでもありません。

結局、藤原家中においても反対に遭い、結果的に「恵美押勝の乱」で敗退、死亡するという結果になりました。

日本国の正当性を謳った日本書紀の成立から50年で皇統の危機が2人の人物によってもたらされていたのでした。

結果的に皇統は守られたのでした。

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