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多賀城1300年記念祭
遊びではないですが、宮城県多賀城市に行ってきました。
多賀城市は今年が多賀城建造から1300年のメモリアルイヤーらしいです。
724年建造です。
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そして東大寺などともメモリアルコラボしてました。
おそらく724年は東大寺を建造した聖武天皇が皇位に就いた年だからと推測します。
そんな多賀城の歴史をChatGPTに訊きました
多賀城(たがじょう)は、奈良時代から平安時代にかけて、現在の宮城県多賀城市に存在した古代の城で、東北地方(当時は「陸奥国」)の政治・軍事の中心地として重要な役割を果たしました。
### 多賀城の歴史
1. **建立の背景(724年)**:
- 多賀城は、724年(神亀元年)に、陸奥国の国府(地方行政の中心地)として、また鎮守府(軍事拠点)として設置されました。これは、当時東北地方に居住していた蝦夷(えみし)と呼ばれる人々に対する防備と、彼らの統治を目的としたものでした。建設の指揮を執ったのは、当時の陸奥守であった大野東人です。
2. **役割と機能**:
- 多賀城は、軍事拠点であると同時に、陸奥国全体の行政の中心として機能しました。城内には政庁や役所、兵士の駐屯地などが設けられていました。また、東北地方における経済活動の中心地でもあり、東北地方から都へと物資を送る際の拠点となりました。
- 鎮守府が設置されたことで、中央政府の支配が及ぶ範囲を広げ、東北地方の安定と開発が進められました。
3. **藤原基衡による再建(11世紀後半)**:
- 多賀城は幾度も戦乱に巻き込まれましたが、11世紀後半には藤原基衡によって再建されました。藤原氏は奥州藤原氏として東北地方を支配し、平泉を中心に栄えましたが、多賀城もその支配下にありました。
4. **後退と廃城**:
- 平安時代後期になると、中央政府の力が弱まり、多賀城の役割も次第に薄れていきました。鎌倉時代には鎮守府が廃止され、室町時代には多賀城は次第に衰退し、最終的に廃城となりました。
5. **現在の多賀城跡**:
- 現在、多賀城跡は国の特別史跡に指定されており、城跡として保存されています。遺跡公園として整備され、土塁や政庁跡などが残っています。また、隣接する多賀城廃寺や関連する遺物が発見されており、当時の歴史を知る手がかりとなっています。
### 重要性
多賀城は、奈良時代から平安時代にかけての東北地方の歴史を理解する上で極めて重要な遺跡です。日本の古代国家が地方支配をどのように展開していったかを示す貴重な例であり、蝦夷との関係や日本の歴史における東北地方の位置づけを探る手がかりを提供します。
大野東人!!
朝廷側が拠点として建てたお城です。
そんな多賀城市ですが陸奥国一宮の塩釜神社があります。
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祭神は主は塩土老翁副は建御雷命と布都主命という武神
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とてもオーラありました。
御塩買いました。
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空港で大興奮のずんだシェイク飲めました
美味しすぎる
シェイク史上最高です。