【奇譚】夢の街 [第二稿]
魚を見上げていた。
巨大な魚が宙を泳いでいた。視界の内に収まるか収まらないかという巨体なのに、重さを感じさせない銀一色のオブジェ。斜光が射す中、魚は緩やかな弧を描きながら上昇していた。
片手で手摺りを掴んだまま、空いた方の手を伸ばしてみる。なんだか、手が届きそうな気がした。しかし、目の前の魚に手を伸ばせば伸ばすほど、その距離が思っているよりもずっと離れているとわかってしまう。その大きさが思っているよりもずっと大きなものだとわかってしまう。私はその伸ばした手をゆっくりと手摺りに戻した。
眼下の大きな吹き抜けを覗くと、その大きな魚の後ろを小さな魚の群れが連なっていた。その群れは先頭の魚と共に、幾らかの階層分の螺旋を為して煌めいている。
ーーこの場所を知っている。
アトリウム$${^1}$$。全面ガラス張りの商業施設。
ガラス屋根からの光が屋内全体に行き届くよう、各フロアの真ん中は吹き抜けている。吹き抜けをぐるりと囲むようにエスカレーターや階段は置かれ、それがどこまでも上下に伸びる大きな螺旋構造を作る。その中心を、あの魚のオブジェが泳いでいた。
どの階層にも吹き抜けを囲うように回廊があり、そこにアパレルショップや菓子店などが立ち並ぶ。それぞれの店舗の奥の嵌めごろし窓からは外の様子が窺える。
窓から陽が射していた。陽は床にせせらぐと、店舗の床を通り、そのまま回廊を分かつように流れては、フロアから中心へと落ちていった。滝のように流れ落ちる光は、リボン状となって、空間に縞を織っている。その縞をあの魚が纏っている。
じっと眺めていると陽の傾きと共に、鱗が七色に煌めいた。水中を漂う浮遊感があった。
階下を見下ろすと、買い物客らが疎らに見えた。足音や話し声は騒めくという程でもない。午後の陽溜りの中を、様々に人が行き交っている。
商品棚を眺める人。ベンチに座る人。子供の手を牽き歩いている人。
ーー顔がない。
いや、光で顔が霞んで見えているのかもしれない。
周囲のものと買い物客とが混ざりあって一つになっているかのような光景。点描画を思わせる光景。どこか一点に注目しようとしても、朧気な像が霧散してしまいそうだ。
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「ねぇ、ママ見て」
後方から声が聞こえた。
振り向くと雑貨店の入り口のところで、少女が母親に何かを見せていた。
「どっちがいいかな?どっちもいいと思うの」
ーーあれは蝶だろうか。
少女の両の手にそれぞれ別の髪飾りが止まっている。
右手の上には赤い蝶。左手の上には青い蝶。
「あら、どちらも素敵ね。どっちもよく似合う」
少女は交互に蝶を髪に当ててはしゃいでみせた。
「だけど片方ね。好きな方を選びなさい」
さっきまで少女の周りを舞っていた2匹の蝶は、少女の腕が静かに下がっていくと同時に動かなくなった。
ーーあの子はどちらか選ぶのだろうか。
小さな手の上に残る髪飾り。俯いた少女はそれを見つめていた。
私の視線に気づいたのか、母親がこちらに顔を向けた。私は思わず視線を逸らしたが、何だかばつが悪くなって、その場を後にすることにした。
近くにあったエスカレーターで階下に降る。エスカレーターに運ばれながら魚のオブジェを見上げると、実に優雅なその泳ぎが私を嘲笑った。チラチラと網膜を刺激する鱗の輝きに眼を細めた。
エスカレーターを降りると、別段行く当てのない私の前に丁度よく喫茶店が現れた。浮き足立ってしまわないうちにと、気付くとその喫茶店に吸い込まれてしまっていた。豆を煎る温かな苦味のある匂いが、大人の体裁を繕ってくれる。他の客は奥の席に一人見えた。
「何名様でしょうか?」
「一人です」
「かしこまりました。それではお好きな席へどうぞ」
会釈とばかりに軽く右手を上げると、吹き抜けの見える窓際の席に座った。先ほど乗って降りてきたエスカレーターが見える。
ーー便利なやつ。助けられてしまった。
店員がお冷やとおしぼりを運んできた。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
店員が去るとメニューを開いた。一通り商品を眺めてみるものの、いつも大体ブラックと決まっている。右手を上げて店員を呼ぶ。
「オリジナルブレンドをひとつ。ホットで」
「ミルクはご入用でしょうか?」
しかし、ふとミルクも付けてみる気になった。
「はい、お願いします」
「以上でよろしいですか?」
「はい」
「かしこまりました。それではお持ちいたしますので、少々お待ちください」
頭の斜め上の方では、シーリングファンがカラカラという微かな音を立てて回っていた。
私はよくこの街に来る。澄んだ空気の光の街。
頭の中で思い浮かべる地図は不思議といつも同じだ。この店の隣、背にしている壁の向こうには靴屋があり、その前を通って吹き抜けの対角まで行くと古本屋がある。そして、そこから降りる階段の先にはペットショップがある。このファンの音を頼りに目覚めるとまた、きっとこの記憶は曖昧なものとなってしまうのだろうが、夢の中ではいつも確かな記憶がある街。
寝返りを打ってもう少し眠ることにした。
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コーヒーカップと小ぶりなミルクピッチャーがテーブルの上にあった。
暫くカップから立ち上る湯気が、席ごとに付けられたシェードランプの薄明りに照らされて消えるのを眺めていた。
まずは、そのままのコーヒーを一口飲んだ。いつも通りのブラック。シャープな苦さが口蓋を撫でたのち、呼気と共にそれが鼻腔を抜けるのを確かめる。
カップに視線を落とす。装飾のない白いカップを真上から覗いた。
白く丸い陶の縁の中、表層には深くローストされた褐色がある。その奥は黒く濁る。コーヒーの表面が波打つと共に揺れる顔。黒い液体を漂う顔は誰でもないように見えた。舌の端に苦味が残る。
カップを置きミルクを注ぐ。スプーンを半回し。忽ち誰でもない顔は白の渦に溶けていった。
今度はもっと多くを口に含んだ。苦味を洗う。輪郭を失った、しかし優しい味わい。いとも容易くミルクのコクは口内を覆い隠し、否応なしに心穏やかにさせる。自然と溜め息が溢れた。
窓の向こうを見ると陽光がさっきよりも傾いて、ビルの内側のコントラストを強めていた。柱から伸びる影はその領域を増す一方で、あの魚だけ尚一層の輝きを放つのが目立つ。
吹き抜けの空間だけがトリミングされた別世界。
柔らかで自由な光の世界。
薄暗な喫茶店のショーケースの中、ミルク入りのコーヒーを飲みながら、それをただぼんやり眺めていた。
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コーヒーを飲み終えると店を出た。
中央の吹き抜けを横目にやりながら、対岸の古本屋の前の階段まで回る。
元々疎らにしかいなかった客らは随分と減っている。一度陽が傾き始めるとそれに応じて陰る速さは加速度的に増し、見る見るビルの中がオレンジと黒の二色に分けられていく。柱の横を通るたび影の中をすり抜けた。
本屋の前までやって来て階段を見下ろす。階段には、その淵に沿うようにべっとりと自分の影が貼り付いていた。
一段降りるごとに蛇腹を折る影が、伸びたり縮んだりを繰り返す。自分の影だが、別の生き物のようにも見えてくる。試しに階段の途中で立ち止まってみたら、きっとこの影も動きを止めるのだろうと思いながらも足を止められない。
そのうちに、そんな私を面白がって、影の方が見つめ返してきている様な気さえしてきた。
足は降る。影は踊る。
気づくと、その影が階段を降りた先の回廊の影の中へと頭から飛び込んでいった。私も後を追うように影に入っていった。
回廊の暗がりの滑る中を歩いている。どこかから感じる影の気配。遠くにいるようでもあり、側まで来て何か囁いているようでもある。
時折、耳の裏の方で呼吸している気がした。肌を擽る感覚。頬から首筋。腋下から二の腕を擦って指先へと優しく撫でる。影でできた薄い油膜のようなものが肌に纏わり付き、次第にそれが全身を包み込んでいく。
膜は包む皮膚をそっと牽いて、より深い暗がりへと身体を誘う。影の導くままに身を任せた。
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進む先には、たくさんの眼があった。生まれて間のない動物の眼。
私はペットショップというものが苦手だった。ここに来るといつも、無垢な憧憬を抱く眼差しを向けられる。夢が夢であった頃の私の眼にも灯っていたはずの輝き。今では別の何かを纏う私の眼の奥を、無邪気に覗き込んでくる。まるで自分というものが見透かされているようだ。己を恥じた。
ーーどうしてその狭いショーケースの中から、純粋な眼を向けられる。
人間のエゴに嫌気が差した。心臓が早鐘を打った。
バサッと、大きな音が聞こえた。鳥が羽撃く音。それも随分と大きな。慌ててその音の在処を探したが、ここには小さな鳥がいるばかりである。ーーそれに、この辺りというより建物全体から響いたような。
振り返ると、吹き抜けの上の方から一枚の七色を帯びた羽根が揺らめき降りてきていた。回廊の影から切り離されたオレンジの空間の中を静かに揺れて落ちる羽根。ーーこの羽根はどこから。
思い切って手摺りに手を掛け、吹き抜けから身体を乗り出し見上げる。その強い光に強烈な眩暈がした。螺旋状に配置された階段が光線と共に奇妙に捻れる。手摺りにしがみついて身体を落とさないようにするのがやっとだった。
漸く視界が落ち着いて来た。目を凝らしてもう一度見上げる。あんなに目立っていたあの魚がいなくなっていることに気づいた。その代わりに、高く高く離れたところ、放射状に伸びる光線が最も強く輝くその中心を、一羽の鳥が極彩色の長い尾を揺らしながら去っていくのを見た。
吹き抜けから慎重に身体を戻して今度は下を覗き込む。
ーーあの羽根はもうあんなに下の方に行ってしまった。今からでも追いかけることはできるだろうか。
そう思い立って影から飛び出し、階段を降り始めた。
階段の手摺りに手を添えながら、転げ落ちないようにだけ気をつけて、只管螺旋を降りた。少し頭をずらせば、まだ遠くに羽根が見える。
タン。タン。と、鳴らして降りるリズムが心地よい。もう人の気配はまるでない。足元から響く階段のステップを打つ音だけを聴いていた。
タン。タン。タン。タン。タン。タン。タン。タン。
オレンジに染まった壁と階段。
底は見えない。どこまでも下に伸びている。クルクルと回転する映像が網膜の奥に流れ込む。途中まではフロアへ繋ぐ踊り場があったのも忘れ、いつの間にかただの円筒形を夢中で降りる。影も光もない、ただ一色の螺旋を降りていく。
タン。タン。タン。タン。タン。タン。タン。タン。
もう羽根の姿も消えて見えないが、気にも留めずに無心で降りる。
ーーずっと前からこうしていた気がする。もしかしたら初めからだったかもしれない。
目的もなく、ただただ足を動かした。不思議と疲れはなかった。
タン。タン。タン。タン。
音に集中した。オレンジ色。螺旋。
足を動かす。
タン。タン。タン。タン。
もう降りているのか昇っているのかもわからない。
音が響く。
タン。タン。タン。タン。
すべて消える。
私も消える。
ただ一つ、夢幻の世界があるのみだった。