ツイッターに書いたつぶやきの補完つぶやき的な15
「はま寿司四皿だけ食ってから白チューのラーメンきめたら精神満足度が10000000000になった」
家の近くにあるチュー系列の中華料理屋さんのラーメンが異常にうまいというのがあります。本当にうまい。塩と油のまろみによるうまみがすごい。同居人と知り合いのみんなで食べに行こうという話になってたのだけど、その前に前菜としてはま寿司で数皿だけ食べたらもっと良いのでは?となり、そういう流れになりました。正午前の時間帯に行ったはま寿司が、いつも一人で夕飯時に行く時よりも明らかに酢飯がうまくて、たぶん炊きたてだからだろうとなったんだけど、非常に満足な感情になり、ラーメンも確定した優勝の味だし、10000000000になったわけです。
「ツイッター上でやたら認知されている(実際に会って話したことはない)タイプの陶芸作家」
初めてお会いする方々からほとんど確実に言われるセリフとして、ツイッターで観測して知ってます〜というものがあり、この国でもっともツイ廃の陶芸作家というポジションを感じ出している。
「展示のコンセプトは何だとか何故今この展示なのかとかうだうだ言われたりすることもあるけど、そもそも展示は金や時間や体力をバカスカに使って行われるものなので何も考えずただ開催すれば確実に損をする。だから何かしらの得をするために出来るだけコンセプトを練ったりイベントを開いたりする。」
人を数人集めて展示場所を予約して展示しました〜ってだけだと、その展示がうまくいったかどうかの判断が手っ取り早い話作品が売れたか売れなかったかという点だけになり、正直作品は売れてほしくないという気持ちが若干あるので、僕はその尺度だけで判断されるような展示会にはそもそも懐疑的なところがある。人を呼んであとは放置みたいな展示にするのなら人数自体をむちゃくちゃ多くするとかしてたらまだいいけど。展示がどう捉えられたか、誰に(出来ればその時の自分に最も刺さってほしいタイプの人)見られたか、展示前に何を提示したか、展示中はどういう反応が発生しているか、展示後はどういう余韻があるか、そのへんを鑑賞者に自然と目を向けさせるために何(最も簡単なのでいうテキストを用意する)をしたか、みたいなことはあくまで参加する僕たちが「損をしたくない」からやるのだ。作品をポンと置いただけで伝わることなんてほとんど無いのだから。
「爆裂に絵がうまい人しかおらんのかこの世界には」
新しく居候として住んでいる人は爆裂に絵がうまいし、ツイッターを見てると爆裂に絵がうまい人のドローイング画像が流れてくる。まるでこの世界全ての人が爆裂に絵がうまいかのようだ。
「僕は絵がうまくならないから誤魔化すスキルだけがぐんぐん伸びていくぞ、まいったか!」
紙にペンとかだと純粋な画面のうまさみたいなところで見られてしまうけど、陶芸ならフォルムとか表面の質感状態とか使いこごちとか、絵以外の要素で絵付けの適当さを誤魔化すことができる!すごい!しかも陶芸は焼き付けるというプロセスで絵それ自体に強度を補完させることができる!すごい!なので出来るだけ丁寧に絵付けしようという気持ちはありつつ、適当に書いたれという雑な感情もプラスに捉えながら絵付けをしています。
「ツイッターで異常なふるまいをすることを面白がれるのは、一線を超えたクソリプ(一線の基準は送られる相手に委ねられる)を送らないとか現実で会うとある程度きちんと対応してくれるとか、そういうメリハリがあってこそなので、異常なふるまいそれ自体が面白くなることはむしろ稀。」
僕はツイッターで暴れてるつぶやきなんかは所詮フォントが暴れてるだけだから自分にクソリプや攻撃的なDMが来ても特に何も思わないというかむしろ愉快なイベントきた〜くらいに思ってるのだけど、そのノリを受け入れられない他者やいわんや現実に持ち出すのはシンプルに人間性の問題なのでやったらあかんわなと。自分が現実でやってしまった暴力性についてツイッターの文章内で正当化させるようなことを延々言ってるアカウントとか観測してるけど、なーに言ってんだかという感じで。まぁでもそれもツイッターでとどまってるならむしろ発露の方法としては救済的なんだけど。
「やくならマグカップもを見ると自分が最悪の警察になってしまうので迂闊に見れない」
制作シーンの細かいところが気になってしょうがないので純粋にストーリーを追えない病にかかってしまう。まぁこういう美少女キャラたちが何かにチャレンジする系の趣味アニメは無いようなんてあるようであんまり無いのがほとんどだから気にしなくていいんだけど……そうなると描写が気になったらもう観れる場所がなくなってしまうのであった。いろんな流行ってる趣味アニメの裏にはたくさんの有識者の苦悩が転がってるのだなと実感した。