ツイッターに書いたつぶやきの補完つぶやき的な20
「結局「めんどくさいからやりたくない」って言うのが恥ずかしいから色々と理由つけてやってないだけなんだよなぁって思う」
何かを作ることができるかどうかってリビドーに近いところにある衝動をいかんなく発露できるかにかかってるし、やる理由・やらない理由をいちいち考えてる時点でずれてるんですよね。クッソでかい作品を理論的な理由だけでできるわけない、というそういうのは後になって出てくるかもしれないしだからこそ批評とかで作品の存在の正当性を語られたりするけど。少なくとも作家本人は制作してるときはそんなまごまごしたことは考えてないと思う。やっぱり素材をいじってるのが気持ち良いんだろうし、どうしようもなく制作してるんだと思う。なのでまぁ、やりたくないっていうのはやりたくないからやりたくなくなってるんですよね。
「劇場版名探偵コナン緋色の弾丸、見るか。」
みました。もっと派手に爆発してほしかったですね。
「良い空間なので来れる人見に来てくださいね。キタイッサカは民家なので普通に人が居ないみたいなのが発生する可能性がありますが……」
家によく来てくれる友人が土間に作品を展示する行為をしています。作品が何かしらの意思でグッと置かれてる様子というのは良いもの。形式としては個展になるのかもだけど、住人の作品群が既にわりとところ狭しと置かれているので、道行く人にはなんだこれはという感じに映ってるのかもしれませんね。キタイッサカの家がある道は向かいが崖になってて家が無いから、こういうオープンな態度をとることができるのは本当に気楽でいい。
「絵がどうのよりも書かれてる線が気持ち良いかを気にする感情と、会話全体で良い議論が出来たかよりもおしゃべりそれ自体の気持ち良さを達成できたかを気にする感情が自分の中でわりと同じところにあるなと思い始めた。」
僕はわりといろんなものに対してこの傾向があるのではという気持ちがある。人と話していて自分では「さっきの会話微妙だったな〜」と思っていたら相手には「過不足なくて良かったですよ」って言われたりしたので、あぁ僕が会話に求めてるものってそもそもなんかズレてるんだなって思った。僕は正直議論で何かしらの回答が得られたかどうかはわりとどうでもよくて、自分にとって心地の良いテンポで話せたかどうかが重要なのであった。それをやっていった結果良い結論が出るというのは副次的にあるので、そうなったら万々歳くらいの感じで。カラオケで何かを歌うときも歌詞のメッセージ性を相手に伝えるために歌えたかよりもそのときそのときの歌声が上手に出せたかに気を使いながら歌ってるし。結論よりも動作それ自体の自己満足度/完成度を意識するのも、「工芸性」のひとつなのだろうか?
「世界とメチャメチャの狭間」
世界の中で大切に生きたいという気持ちが優先されるときと、もーなにもかもメチャメチャになっちゃえばいいよという気持ちが優先されるときの間を揺れ動きながら結局なんとなーくなノリで毎日を生きてる。でもこうやって揺れ動けてるという自体、僕はお気楽幸せな立場にいることの証左なのだろう。どちらかに振り切れてしまった人に対して何かを言い切れるだけの強さが僕にはまだ無い。