「声がら」#シロクマ文芸部
金魚鉢に残された金魚の抜け殻を見つけ、夏が近いことに気がついた。確か去年もそうだった。今年の夏は暑いのかな、と独り言を呟くと「そうみたいだね」と返事が返ってきた。でもそれはこの部屋を去っていった恋人の残したいくつかの「声がら」のうちの一つであって、私と会話が成立したわけではなかった。
買い物の途中で出会う野良犬も衣替えの季節か、脱皮したての自分の抜け殻をくわえて私に寄ってきた。一度懐かれてしまうと、彼の縄張り近くを通るたびに駆け寄ってくるようになってしまった。犬の抜け殻をもらっても仕方ないと思いながらも受け取って自転車の前かごに入れる。
「ありがとう」欲しくもないものを受け取ってしまっても、勝手に口からお礼の言葉は出てきた。
「どういたしまして」みたいな控えめな一吠えを残して野良犬は去っていった。
名前くらいつけてやろうと思いつつ、これ以上情が移るのもお互い困りそうでつけないでいた。
鳩や雀の抜け殻をカラスたちがまずそうに口に入れている。脱皮途中で動きが鈍くなっている雀を、生きたまま丸呑みにしようとして喉に詰まらせて倒れたカラスを、別のカラスが食べ始めていた。私は彼らに野良犬の抜け殻を投げようかと一瞬考えるが、そんなことはしないで、最低限の食糧をスーパーで買った。
金魚のいなくなった金魚鉢は一度綺麗に洗ってから、買ってきたばかりのもやしの袋を開けて中身を入れてみた。
「何してんの?」と声がらの一つが声をかけてきた。
「こうしておくと、もやしが少しずつ増えるんだって」
「何してんの?」
「たぶん嘘だと思うんだけどね」
「何してんの?」
野良犬の抜け殻をゴミ袋に入れた。空っぽの眼が私を見つめていた。
「何してんの?」
何も。
近所のどぶ川を、私の部屋から巣立っていったらしい金魚が泳いでいた。去年同じように巣立った金魚は一年分大きくなっているだろうかと姿を探したが、他に金魚は見当たらなかった。野良犬は老人の皮をくわえて持ってきた。近所に住む大家さんの皮のようだ。今晩あたり、ツヤツヤになった肌を見せびらかすようにしながら、家賃の督促にくるだろう。「声がら」の一つ二つむしり取って捨てていくだろう。
三日待ってみたが、金魚鉢の中のもやしは腐っただけで増えはしなかった。
「だから言ったのに」
大家さんはアパートの取り壊しを告げにきた。退去費用は負担してくれるという。
「だから言ったのに」
恋人の去ったアパートで過ごしながら何を待っていたのだろう。夏だろうか。
「だから言ったのに」
本格的な夏が来る前に取り壊すのだという。急な話だ。
「そうみたいだね」
昨年の夏、床を破って出てきた大きな蝉の幼虫は、寝ている私を長い間踏みつけてから羽化した。
「何してんの?」
かつての恋人は蝉の下敷きになっている私を見て笑っているばかりだった。
彼の去った後に残された、彼の抜け殻は、とても重くて、中身がずっしり詰まっている珍しい抜け殻で、処分するのに随分時間がかかった。野良犬にも助けてもらった。
「そうみたいだね」
金魚鉢の中のもやしをビニール袋に入れて外に出た。しばらく歩くといつもの野良犬が寄ってきたので、腐ったもやしの入った袋をあげてみる。ものすごく嫌そうな顔をしながらも、「ありがとう」と言うみたいに小さく吠えて、袋をくわえて去っていった。
(了)
今週のシロクマ文芸部「金魚鉢」に参加しました。
「声がら」というアイデアは、何かの歌詞の「声から」か何かを「声がら」と見間違えた瞬間に出てきました。
一度懐かれた犬は、すれ違うたびに「撫でて撫でて」と目で訴えかけてきます。