たそがれ商店街ブルース 第5話 変装
私と河童は本殿の床下で、膝を抱えて並んで座っていた。太陽はすっかりと顔を出し、蓋の開いた井戸の周りでは、すでにしっかりと脂肪を蓄えた冬のスズメたちが「もっともっと」と落ち葉に埋もれている何かを必死につついていた。そんな強欲なスズメたちと、河童が隣にいる事を除けば、それはとても穏やかな昼下がりのように思えた。
「助けていただいて、ありがとうございます」
他の河童はどうか知らないが、私が助けた河童は流暢に日本語を喋った。そこで私は、いったいどうしてこんな所で倒れていたのかと疑問を投げかけてみた。
すると、河童はやはり流暢な日本語を使って、ことの成り行きを丁寧に説明してくれた。その内容を要約すると、こういうことだ。
河童は、あちら側の商店街の奥にある小さな神社で、家族と一緒にひっそりと暮らしていた。その神社は今私たちがいる神社と寸分違わないあべこべの形をしていて、やはり古い井戸があり、こちら側の井戸と繋がっているという。しかし、数日前から河童の妻と息子がひどい風邪をひいてしまい、苦しんでいた。そこで、ここ最近河童の世界でよく効くと噂になっている人間界の薬を手に入れようと、井戸を伝ってこちら側の神社にやってきたのだ。しかし、天気予報でも再三言っていたように、今日は乾燥が非常に激しくて、思いのほか早く頭のお皿が乾いてしまったのだという。
「ほら、よく言うじゃないですか。河童は頭のお皿が渇くと力が出なくなるって。アレ、本当なんです」
河童はそう言って、頭の上に乗っている湿ったハンカチを、水掻きが付いている手で指し示した。
「これがなかったら死んでいたかもしれません。本当にありがとうございます。この御恩は一生忘れません」
私は丁寧に礼を言う河童を「いいから、いいから」と制し、「ところで、いったいどうやって薬を手に入れようとしてたんですか」と話の続きを求めた。
「まさか普通にお金を払って買おうとしていたわけじゃないですよね」
「ええ、お金は持っていませんから」
河童は人間が口角を上げる時のように、嘴を横にぐいっと広げ、にっこりと笑ったような素振りをしてから続けた。
「実はちょっと前、あっ、ちょっとと言っても6年ほど前の話なので、人間の世界ではそれなりの時間だと思いますが、私たち家族が暮らしている神社に、ある1人のおじいさんが現れたんです。普段は人っ子一人来ないような神社ですから、それはそれはびっくりしました。すると、そのおじいさん、まだ昼間だというのにだいぶ酒に酔っていたようで、ふらふらと本殿の裏側までやってきたんです。私たち家族は見つからないように息を潜めて、今のように本殿の床下の隅に隠れていました。すると、そのおじいさんは私達に背を向けるような格好で、塀の隅っこまでよたよた歩いていくと、急にズボンを下げて放尿を始めたんです。
その時でした。1匹のとてつもなく大きな黒猫が私たちの死角から近づいてきていて、まだこんなに小さかった私の息子を咥えて走っていってしまったのです。私は咄嗟の出来事に、後先考えずその猫を追いかけました。だってそうですよね、親だったら我が子を助けようとするのは当たり前です。すると、放尿の真っ最中だったおじいさんがその気配を感じとったようで、いったい何事かと振り返ったんです。その瞬間、私とおじいさんの目が合いました。すると、おじいさんは目をはちきれんばかりに見開いて、そのまま泡を吹いて倒れてしまったのです。黒猫はおじいさんが倒れたときの音にびっくりしたのか、咥えていた私の息子を吐き捨てて、一目散に逃げていきました。幸いにも私の息子は事なきを得たのですが、残念なことに、倒れてしまったおじいさんはそのまま亡くなってしまわれたようでした」
ここまで説明を聞いて、私の中で、ある点と点が1つの線に繋がった。それは、その亡くなったおじいさんは、原青果店のトミさんのご主人だということだ。
私は以前神田さんから、山ちゃんも知っといた方がよいと教えられたことがあった。それは、トミさんのご主人は、あちら側の商店街の奥でズボンを下げた状態で亡くなっていて、死因は突発性の心筋梗塞だったということと、血中からは高濃度のアルコールが検出されたということだ。
私は密かにこの話は神田さんの作り話なんじゃないかと思っていたのだが、どうやら本当の話だったようだ。しかし、あちら側にあべこべの神社があるなんて話は、誰からも一度も耳にしたことがなかった。
「あの、どうかされましたか」
神妙な面持ちをしていた私に河童が尋ねた。
「いえ、なんでもないです。続けてください」
「その時私は思ったんです。人間は河童の姿を見ると、びっくりして気絶するんじゃないかと。それで今朝、雨宮ドラッグならいけるんじゃないかと思い立ったんです。あそこならいつも女性の店員が1人いるだけですし、お客さんがいることも殆どありません。それに、線路を挟んで斜向かいにある大型ドラッグストアのように、防犯カメラもついていません。だから、あの女性店員さえ気絶させることができれば、その隙に薬を持っていけるんじゃないかと、そう思ったんです」
河童はそう説明したが、私には雨宮ドラッグのミヤ姉さんがそう簡単に気絶するとは到底思えなかった。
「あっ、でも山ちゃんさんは私を見ても気絶してないですね。ということは、ひょっとして、これは私の甚だしい勘違いだったのでしょうか」
河童はもう薬が手に入らないと思ったのか、少しがっかりしているようにも見えた。
「気絶してしまう人はたくさんいると思いますよ。実際に私も気絶しそうなくらいびっくりしましたから。でも、人はそれぞれ違いますからね。中にはびっくりし過ぎて攻撃的になる人だっていると思いますよ」
私の頭の中では雨宮ドラッグのミヤ姉さんが、レジカウンターの中から河童に向かって、ありとあらゆる物を投げつけている絵が浮かんでいた。それはもちろん薬の入った箱だったり、会計トレイだったり、伝票刺しだったりした。それに次いで、ハサミ、カッター、椅子が飛び、さらにはレジスターまでもが飛んでいた。
ひょっとしたら、私はこの点でも河童を救ったことになるのかもしれないと、ひとり口元を緩ませていた。
すると、河童が改まった様子で言った。
「ところで山ちゃんさん、この後少しだけお時間ありますでしょうか」
私の今日の用事といえば、夕飯の材料と風邪薬を買って家に帰ることくらいだった。
「ええ、時間だけなら持ち合わせていますが」
すると、河童は申し訳ないことを言うときのように、少しモジモジしながら遠慮気味に言った。
「雨宮ドラッグに、一緒に行っていただけないでしょうか」
私はそれをお安いご用と軽く引き受けた。そもそも、私も風邪薬を買いに雨宮ドラッグへ行くところだったのだ。
しかし、軽く引き受けたとはいっても、河童を河童の状態のまま引き連れて雨宮ドラッグに入っていくというのは、どうも気が引けた。さっき想像していたように、それには危険が伴うからだ。薬の箱や会計トレイくらいならまだしも、椅子やハサミやカッター、さらにはレジスターまで飛んでくるとなったら、最悪の場合、雨宮ドラッグにある薬を全部使ったとしても命が助からない可能性もある。
そこで私は、なんとか河童の姿をカモフラージュできないものかと思い、着ていたロングコートを脱ぎ、河童に着せてみた。
すると、河童の背丈がちょうど私の胸あたりまでしかなかったということもあり、脛の辺りまでを一気に覆い隠すことができた。
ロングコートを無理やり着せられた河童は、なんとも不自然な出立ちではあったが、さらにそこに私が被っていたニット帽を深く被せ、手袋をはめ、マスクを装着させると、非常に滑稽ではあるが、なんとか人間の少年のように見えなくもなかった。もちろん、ニット帽の中にはお皿が乾かないように、湿らせたハンカチを忍ばせてある。
「人間の服って、とても暖かいんですね」
河童は満更でもないといった様子だ。しかし、頭から脛のあたりまではなんとか隠せたとしても、ロングコートに収まり切らなかったこの足元はいったいどうすればよいのだろうと、私は頭を抱えた。
単純に私の靴を脱いで履かせるということも考えたが、それでは私が真冬なのに靴も履かず
、薄着でうろついている怪しい人物となってしまい逆に目立ってしまう危険性がある。
そこで、私は逆転の発想に出ることにした。リアルな爬虫類柄のブーツを履いているということにしておくのだ。脛の下まではコートで隠れているのだから、わざわざそんなところまで注意深く見てくる人もいないだろう。
そのようにして、私は少年に扮した河童を引き連れて、雨宮ドラッグへと向かった。
第6話へ続く