たそがれ商店街ブルース 第1話 微熱
幼い頃、熱を出すといつも奇妙な夢を見た。
細くなったり太くなったりする雪が降りしきる山道を、1人歩く少年の私。どこから来たのか、どこへ向かっているのかもわからないまま歩き続けていると、いつの間にか、360度が真っ黒闇に包まれた空間にワープしている。私は自分が立っているのか浮いているのかもわからない。すると、どこからともなく、ふんどし姿のいかつい男たちが現れて「エンヤコーラ、エンヤコーラ」と掛け声を発しながら舞を踊り、私の周りを縦横無尽にグルグルと回り始めるのだ。
縦、横、斜め、男たちは私を中心にした球体をなぞるように、移動しながら踊り続ける。私はその球体の中心にいて、ただそれを眺めている。男たちが私の存在に気がついているのかは定かではないが、とにかく、舞を踊りながらグルグルと回り続けるのだ。
夢の終わりはわからない。目を覚ました時が夢の終わりだから。そして、不思議なことに、その夢を見てしまった後はいつもぐっしょりと汗をかいて、すっかりと熱が下がっていた。
私は6畳の和室に敷かれた布団の中で、久しぶりにその夢を見た。大量に汗をかいたせいで、寝巻きが肌に張り付いて気持ちが悪い。最後にこの夢を見たのは、確か小学4年生か、5年生の時だったと思うから、もう25年以上も前のことになる。
25年。私が今まで生きてきた37年という年月を考えると、それはとても長い時間だ。多くの人がそうであるように、私もこの25年という時間の中でいろんなことを経験してきた。
出会い、別れ、挫折、後悔、羨望、失望、チョンボ。
私はそれらの経験を通して多少なりとも成長をし、少しはまともな大人になれたのだろうかと考えてみたりもする。でも結局、いつも答えは出ない。私がまともかどうかを判断するのはいつだって私ではなく、私を傍から見ている人間だからだ。今の私にわかることといえば、病欠と言う名で有給休暇を3日間消化してしまっということくらい。
まったく、ケチくさいったらありゃしない。
私は仰向けの状態で布団に入ったまま、腕だけを動かして枕元に置いてある目覚まし時計を手に取った。時計の針は10時20分を指している。私は時刻を確認すると、時計を元の位置に戻し、その隣に置いてある体温計を手に取った。
体温計を空中でよく振ってから脇の下に差し込むと、まるで氷を突っ込んだかのように、ひんやりとした感触が体中に走った。昨夜は魔女の顔にしか見えなかったはずの天井の大きな染みが、今は子犬のシルエットに見えた。
私は体温計を挟んでいる脇を引き締めながら、カーテンが掛かっている窓の方に目をやった。すると、カーテンの隙間から差し込む光に照らされた空気中の埃たちが、まるで常夏のハワイにでもいるかのように、ユラユラと能天気に踊っていた。
この部屋の主である私が高熱で寝込んでいたというのに、なんでコイツらはこんなに気持ちよさそうに踊っているのだろうか。そう思うとだんだん腹が立ってきたので、私は口をすぼめて勢いよく息を吹きかけてやった。すると、埃たちは慌てふためいた様子で、おんなじ所をクルクルと回り続けていた。
そろそろ5分経っただろうか。私は脇の下から体温計を取り出した。37度2分。あの夢を見た後はいつもすっかりと熱が下がっているはずなのに、今回はまだ微熱が残っていた。ふんどし姿のいかつい男たちも、今回ばかりは少しだけ舞の手を抜いてしまったらしい。
それでも昨日に比べれば、だいぶマシだ。まだ鼻の奥が擦れるように痛むし、唾を飲み込むたびに異物感があるけれど、それらはきっと風邪のせいではない。おそらく、クリスマスが近づいているせいだろう。
私はもう一度埃たちに息を吹きかけると、ようやく布団から出て大きく伸びをした。そして、相変わらずおんなじところを回り続けている埃たちを撒き散らすように、カーテンを勢いよく開けた。すると、窓越しに聳え立つ鉄塔が、冬の日差しをたっぷりと浴びて燦々と輝いていた。
私はこの鉄塔が好きだ。そして、密かに「塔子ちゃん」と呼んでいる。無機質でありながらも、どこか温かみのある鉄の色合いがなんとも色っぽくて、文句も言わずにいつも私のそばに居てくれる。
おはよう、塔子ちゃん。私は昨日よりも元気だよ。
私は部屋の空気を入れ変えたくて窓を開けた。直接見上げる塔子ちゃんは澄み切った青い空をバックにしていて、いつも以上に映えていた。冷たく乾いた空気がさらりと部屋の中に滑り込み、病人が寝ていた部屋特有のどんよりとした空気を少しずつ浄化していってくれる。私は久しぶりに、体の中に活力がみなぎっていくのを感じていた。
私はもう一度大きく伸びをしてから、くるりと反転し、布団をきっちり3等分に折り畳んで押し入れにしまった。そして、丸い座卓の上に置いてあるコップを片付けようと、腰をかがめて手を伸ばしたその瞬間、正面の壁から違和感のようなものが発せられているのを感じとった。そこにあってはならないはずのものがあるような、そんな違和感だ。
私は前屈みのまま目線を上げる。そこにはいつものようにVHS内蔵型のブラウン管テレビ、MDコンポ、それに、黒い円柱形の屑籠が置いてあった。この屑籠は私が勤めているディスカウントショップで、売れ残ったセール品を従業員割引で買い取ったものだ。
私は他に変わったところはないかと、一度部屋の中をぐるりと見回してみた。しかし、そこには生活に必要最低限の物が、いつものように綺麗に整頓された状態で置かれているだけで、特に変わった様子はなにも見受けられなかった。
私は再び視線を壁の方に戻した。すると、やはりそこには違和感があった。
どうもあの屑籠が怪しい。
私はコップを片手に持ったまま、その屑籠に近づいていき、上からそっと覗き込んだ。すると、壁と屑籠の隙間に、丸まった使用済みのティッシュが落ちていた。
そのティッシュを目にした途端、私の中で、後ろめたいような気持ちが芽生えた。なぜなら、そのティッシュは昨晩、私が性欲を処理した時に使用したものだったからだ。
なぜか、昨晩は高熱で浮かされていたというのに性欲が拭い切れず、私は布団に入ったまま、なくなくそれを処理した。そうでもしないととても眠れそうになかったのだ。私はその時に使ったティッシュをバスケットボール選手よろしく、布団の中から屑籠めがけて放った。私の手から離れたティッシュは弧を描き、縁にあたることもなく屑籠に吸い込まれていったとばかり思っていた。しかし、熱のせいで手元が狂ってしまったのだろう。
なんにせよ、ティッシュの軌道を最後まで見届けていなかった私の落ち度だ。それに、仕事を3日も休んでいるというのに、私はいったいなにをしているのだろう。
私は丸まったティッシュを拾い上げると、座卓の真ん中に置いた。
これは自分への戒めだ。明日の朝、家を出る時までここに置いておこう。
私は違和感の正体を突き止めたことに満足すると、キッチンのある隣の部屋へと通じる引き戸に手をかけた。しかし、自分の精液が付着しているティッシュが、座卓の上に直接乗っているということが次第に気色悪く思えてきて、私は新しくティッシュを1枚広げてから、その上に使用済みのティッシュを置き直した。
これでよし。
私は隣の部屋にあるキッチンへと移り、棚から新しいコップを取り出すと、そこに水道水を注ぎ入れ、立て続けに2杯飲んだ。そして、トイレで用を足してから洗面台で手を洗うと、鏡に映った自分の顔を覗き込んだ。
この3日間、一度も髭を剃っていなかったせいで、頬から顎にかけて無精髭が生えていた。私は見慣れない無精髭を生やした自分にワイルドさを感じ、しばらくのあいだ鏡の中の自分に見惚れていたが、次第にただの小汚いおっさんにしか見えなくなってきたので、結局電気シェーバーを使って入念に髭を剃った。
髭を剃ってしまうと、顔だけでなく気分までスッキリとした。すると、腹の虫が鳴くのと同時に空腹感が襲ってきた。考えてみれば、この3日間レトルトのお粥しか食べていなかったので、それも当然だ。人は寝ているだけでも腹が減るし、性欲だって溜まるのだ。
私は何か食べるものはないかと冷蔵庫を開けてみた。しかし、中には缶ビールと生卵、それに、蒲鉾と豆腐くらいしか入っていなかった。
風邪薬も切らしてしまったことだし、今日は買い物に行くしかなさそうだ。
私は調味料棚を開けて、諸々の調味料がまだ残っていることを確認すると、乾物が入っている引き出しから餅を2つ取り出して、オーブントースターで焼いた。そして、ぷっくりと膨れた餅をご飯茶碗にうつし、生卵と鰹節をのせて醤油をたらした。
久しぶりに食べる卵かけ焼き餅は、カリッと焼けた餅の香ばしさと、生卵のとろりとした食感が絶妙で、思わず顔がゆるんだ。
よし、どうせ買い物に出かけるのなら、今夜は寄せ鍋にしよう。それでもって、体が温まったところを見計らってさっさと寝てしまおう。そうすれば、熱も完全に下がってくれるはずだ。
腹が満たされた私は和室に戻り、MDコンポの横に置いてあるMDタワーから、
「Sunday morning」とラベリングされたディスクを取り出して、コンポに挿入した。
"たま"の「さよなら人類」が流れる。
「今日人類がはじめて、木星についたよ」
私は歌を口ずさみながら部屋の埃を取り、3日分の下着やら、寝汗の染み込んだシーツやらを洗濯し、身支度を整えると、商店街へ買い物に出かけた。
第2話へ続く
第2話 こちら側
第3話 神社へ
第4話 遭遇
第5話 変装
第6話 薬局
第7話 あちら側
第8話 あべこべの神社
第9話 警察官
第10話 たそがれ商店街
最終話 心の風邪
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