たそがれ商店街ブルース 第8話 あべこべの神社
参道に取り残された私は、まだ自分の目に映っている景色が信じられないでいた。
さっき、河童に「もうすぐですよ」と言われた時、私は間違いなく住宅街を歩いていた。そして「裂け目」という言葉を聞いて、私は思わず足元に目をやったのだが、そこには裂け目どころか石ころ一つ落っこちてなくて、これはいわゆる河童的ジョークなのだろうと思い再び顔を上げると、次の瞬間には神社の参道を歩ていたのだ。これはどう考えてもおかしいし、とてもじゃないが現実の出来事とは思えなかった。
しかし、私は今、実際にその参道にいる。そして、参道の先にはちょっとした階段があり、賽銭箱があり、鈴尾を垂らした本鈴があり、拝殿があった。
一見、そのどれもがあちら側の神社と全く同じ形状をしているのだが、私は漠然とした違和感を感じていた。なんだか落ち着かないのだ。きっと、これが河童の言っていた、あべこべの神社なのだろう。しかし、もともと神社というもの自体が左右対称に作られている部分が多いため、パッと見ただけでは、どこがあべこべになっているのか、よくわからなかった。それでも手水舎や井戸、クヌギの木などの位置関係を確認してみると、やはり寸分狂わず全てがあべこべになっているように見えた。
私は後ろを振り返ってみた。すると、神社の入り口にはあちら側のそれと同じ形状の鳥居があり、人懐っこい顔をした狛犬の後ろ姿があった。今私が立っている位置からは狛犬の顔までを確認することはできないが、右と左で入れ替わっているだろうということは、容易に想像できた。
私は参道を挟んで、手水舎の反対側にある小さな石碑に目をやった。今の今まで注意深く見たことはなかったが、そこにはあべこべの文字で「千鳥足」と書かれていた。
河童は以前、あちら側の神社とこちら側の神社は井戸で繋がっていると言っていたが、実際のところ、それはどのように繋がっているのだろうか。それはきっと、地下に穴が掘られていてトンネルで繋がっているというような単純なことではなく、もっと時空とか、パラレルワールドとか、概念とかいった類の繋がり方なのかもしれない。だとすると、ひょっとしたら、あの井戸が宇宙に繋がっているということだって可能性としてはあるのかもしれない。
私はあべこべの井戸に目を向けた。すると、井戸にはしっかりと蓋がされていて、その上には井戸の門番でもするかのように、一羽のカラスが鋭い目つきでこちらを睨みつけていた。そのカラスの左目は、曇った硝子玉をはめ込んだみたいに潰れていた。
私はいったん気持ちを落ち着かせようと、大きく深呼吸をした。すると、遠くの方から列車の音が聞こえてきた。その音は次第に大きくなり、こちらへと近づいてくる。しかし、まわりをいくら見回してみても、近くに線路が通っているような気配は全くなかった。
それでも列車の音は徐々に近づいてくる。いったいどこからやってきて、どこへ向かう列車なのだろうか。その実態を伴わない列車の音は、最終的にけたたましい音の波となり、その音に見合うくらいの突風を巻き起こし、あっという間に過ぎ去っていった。その圧倒的なスピードを物語るように、クヌギの木は今頃になって1枚、2枚と枯葉を落とし始めた。井戸の蓋にとまっていたカラスは、いつの間にかいなくなっていた。
果たして、これらは現実の出来事なのだろうか。それとも夢の中の出来事なのだろうか。あまりにも非現実的な出来事の数々に、私の思考は完全に置いてけぼりをくらっていた。しかし、今日一日に起きた出来事を考えてみると、何が起こってもおかしくないという気もしていた。現に私は今、向こう側の神社で流暢に日本語を喋る河童と出会い、住宅街からあべこべの神社へと瞬間移動して、実態のない列車の音を聞きながら、その河童に待たされているのだから。
河童が本殿の裏側からひょこっと顔を出し、私を手招きして呼んでいた。私は河童の元に向かって走っていこうとしたのだが、もしかしたらこの辺りにも裂け目があるのかもしれないと思うと、慎重にならざるを得なかった。
そもそも河童の言う裂け目とはいったいどういうものなのだろうか。その裂け目とやらに落っこちてしまったら、私はいったいどうなってしまうのだろうか。地獄へ落っこちたり、時空の狭間へ落っこちたりして、二度と戻れないなんてことになってしまったら、たまったものではない。
そんな私の心の中を見透かしたのか、河童はひょこっと顔を出したまま、頭の上で両手を合わせ大きな丸を作った。恐らく、ここは安全だという合図なのだろう。私はそれを見て少しほっとしたが、やはり一歩ずつ、慎重に河童の元へと足を進めていった。
その一歩ごとに、今ここで起きていることは現実の出来事なのだという実感が、少しずつではあるが湧いてきていた。足の裏に感じる枯葉の感触と音。そして、冬の澄んだ冷たい空気と風。雲間から覗く太陽の光とぬくもり。そのどれもが確かに今、私とともにここに存在していた。
私の頭の中に、今朝家を出るときに見た、鉄塔の塔子ちゃんの姿がふと浮かんできた。真っ青な冬の空をバックにして、強く聳え立つ塔子ちゃん。そこにはぷっくりとした冬のスズメたちが、仲良く体を寄せ合って止まっていた。そのスズメたちの関係性は親子なのか、夫婦なのか、はたまた他人同士なのか、そんなことは私には到底分かるはずもない。それでも確かに今朝、それらがそこに存在していたということだけは、誰がなんと言おうとも疑いようのない事実なのだ。
本殿の裏まで辿り着くと、河童はあちら側の神社で倒れていた時と同じように、裸ん坊になっていた。改めて服を着ていない河童を見ると、さっきまで人間の少年に見えていたのがまるっきり嘘のように思えてくる。それに、はじめて見た時よりも、肌の色が緑がかってきているように見えた。
河童は嘴の前で水掻きのついた指を1本立てて、私に大きな音を立てないようにと促した。そして、商店街で目を輝かせていた時とは打って変わって、とても大人びた、落ち着いた調子で話し始めた。
「本当でしたら、山ちゃんさんに家族をご紹介したかったのですが、今はちょうど眠ってしまっているようなので、今日のところは申し訳ありません」
私は確かに河童の家族に会ってみたいという好奇心を抱いてはいたが、今はそんなことよりも、私は今どこにいて、これからどうなってしまうのかということが気になってしかたなかった。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、河童は申し訳ないという顔をしたまま、きれいに畳まれたロングコートやニット帽、手袋を私に手渡してきた。ニット帽の上には使い捨てマスクまでもが丁寧に畳まれて置かれていた。
私はそれらを見てハッとした。今の今まで、自分が真冬の真っ只中を薄着で過ごしていたことなんて、すっかり忘れていたからだ。しかし、そのことに気がついてしまったとたん、たちまち寒気が襲ってきた。私は居ても立っても居られず、すぐさまコートやニット帽、手袋、さっきまでカッパがつけていた使い捨てのマスクを装着した。マスクの内側にはとても言葉では言い表せないような珍妙な匂いが付着していて、胃から込み上げてくるものを感じたが、私はそれをグッと飲み込んだ。
コートの右側のポケットに重力を感じ、手を突っ込んでみると、神田さんからもらったカップ酒が入っていた。あの時、神田酒店へ行ったことも、はるか昔のことのように感じられた。
「山ちゃんさんには本当に感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。本来であればお借りしていた洋服もクリーニングに出してからお返ししたかったのですが、いまはその時間がなかったもので、どうか容赦いただきたく思います」
私はなるべく鼻で息をしないようにしながら「気にしていないから大丈夫」と伝えると、河童はようやく表情を緩ませた。
「さて、山ちゃんさんには大変お世話になったので、是非こちらを受け取っていただきたいのですが」
そう言って河童は手袋をはめた私の手のひらに、小さなジッパー付きの透明な袋に入った白い粉を乗せた。
「これは河童の界隈では割と有名なものでして、まあなんというか、薬みたいなものです」
「薬?」
「はい。でも山ちゃんさんが想像しているような怪しい薬ではないので、安心していただいて構いません。私たちの世界では認可もおりている、ちゃんとしたモノですから」
私は河童から受け取ったその薬を、西日にあてながら子細に観察した。
「いったい、なんに効く薬なんですか」
「それはちょっと一言では説明しづらいのですが、まあ、心の風邪に効く薬だと思っていただければよいかと思います」
「心の風邪?」
「はい、温めたお酒と一緒にコレをクイっと飲み込んでいただければ、山ちゃんさんの心の風邪なんてものはすぐに吹き飛んでしまうと思います。ほら、見たことないですか、河童が温泉に浸かりながらお酒をクイっとやっている姿」
そこまで説明すると、河童は柄にもなく得意げな表情をして「ふぉ、ふぉ、ふぉ」と奇妙な声をあげて笑った。
太陽はだいぶ傾いていた。お昼過ぎに家を出発して、あちら側の神社で倒れている河童を発見してからというもの、私はすっかり時間の感覚も、寒さの感覚も失っていたが、ここにきて徐々に正常に戻りつつあるのを感じていた。長い時間薄着で過ごしてしまったせいか、いろんな感覚が戻ってくるのと同時に、まだ下がり切っていなかった熱が、少しずつぶり返してきているような感覚もあった。
「大変名残惜しくはありますが、そろそろ私は家族のもとに戻らなくてはなりません」
河童はまた落ち着いた口調に戻っていた。
「それに、山ちゃんさんも少し急がれた方がよいかもしれませんね。日が暮れてしまうと裂け目がどんどん広がってきて、あわや大惨事なんてことにもなりかねませんから」
裂け目と聞いて、私の体に再び緊張が走った。
「ところで、さっきから言っている裂け目というのは、いったいどんなものなんですか。もし、裂け目に落ちてしまったら、私はどうなってしまうのですか」
「それは私にもわかりません。裂け目に落ちて戻ってきた人間にも、河童にも、まだ会ったことはありませんから」
足元の冷たい空気が背筋を登ってきて、私の体を包み込んだ。
「特に鳥居から数えて8つ目にある敷石には気をつけてくださいね。『八』は末広がりだなんて言って油断していると、痛い目に合いますからね。ふぉ、ふぉ、ふぉ」
河童はまた奇妙な笑い声をあげていたが、私は何がおもしろいのかまったくもって理解できなかった。私は後ろを振り向いて、鳥居から8つ目にあるという敷石を探した。しかし、参道には大小さまざまな不揃いの形をした石が無造作に敷き詰められているため、いったいどれが8つ目の敷石なのかはっきりとは分からなかった。ただ、河童からの忠告があったからかわからないが、その辺りだと思われる周辺だけが、どんよりと不穏な空気を放っているように見えなくもなかった。
不安そうに8つ目の敷石を探す私の気持ちを見透かしたのか、河童は背後から私の肩に手をポンっと乗せて、励ますように言った。
「ビュッと走ってバッと飛び越えれば大丈夫です。そうすればまず落ちることはありません」
私はそれを聞いて、自分が8つ目の敷石を走って飛び越えるところを想像してみた。しかし、神社の参道を全速力で走っている自分の姿も、8つ目の敷石を飛び越えている姿も、うまく想像することができなかった。
「ビュッと走ってバッ」か、ずいぶん軽いノリで言ってくれるもんだな。
もしかして、これも河童的ジョークってやつなのかなと思い振り返ると、河童はすでにいなくなっていた。
「またこれか」
私は思わずそう声に出していた。
河童が言っていたように、私はどうやら急がなければいけないようだった。西の空はいつの間にかオレンジ色に染まってきているし、鳥居の向こう側の景色は、風の強い日のテレビ画面のように乱れ始めていた。
私はひとまず本殿の裏から参道へと戻った。そして、真正面から本殿を眺め、深くお辞儀をしてから低い階段を上り、拝殿へと向かった。私は財布から500円玉を2枚取り出すと、それらを賽銭箱に入れ、2回に分けて大きく鈴を揺らした。
鈴緒の大きなうねりとは裏腹に、鈴はカラコロと頼りげのない音を立てるだけで、とてもじゃないが、神様の元まで届いているとは思えなかった。
私は柏手をたたき、再び深くお辞儀をすると、クルッと180度方向転換し、階段を降りた。そして、一度大きく息を吐き切ってから、足を前後に開き、片膝と、肩幅に広げた両手を地面につき、クラウチングスタートの姿勢をとった。
私はそのままの体勢で目を閉じて、意識を耳に集中させる。風は一切止んでいて、落ち葉も、カラスも、野良猫も、物音ひとつたてはしない。ただ、乾いた冬の冷たい空気だけがそこにはあった。
程なくして、実態のない列車の音が鳴り出した。それは地鳴りのように、地面を震わせながら遠くで鳴っている。私はいつでも走り出せるように腰を浮かした姿勢をとる。列車の音が次第に大きくなる。あともう少し、あともう少し。
「スリー、ツー、ワン」
その音が最高潮に達した瞬間に私は全速力で走り出した。石畳を蹴り、風を切り、私は参道を走り抜けた。列車のけたたましい音が追い風の如く私の背中を押す。
「ビュッと走ってバッ」
私は8つめの敷石の前で地面を強く蹴り上げて、時空を切り裂くように宙を舞った。
第9話へ続く