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海へ繋がる箱

熱海に行った。
自宅のある埼玉から熱海まで、高速道路を使えば車で約2時間。東京の首が痛くなるほどのビル群を抜けてしまえば、海沿いの国道を通る。燦々と降り注ぐ陽光がきらきらと真夏の青く広い海に反射する様は、きっと美しい。ドライブにちょうど良いと思ったけれど、今回は電車で行くことにした。
電車で行くと、大宮から熱海まで約2時間半。自宅から大宮駅は少し離れているので、全行程は車で行くよりも1時間長くなる。
それでも電車で行くことを選んだのは、グリーン車に乗ってみたかったからだ。
通勤等で電車を利用することは多々あるけれど、私はグリーン車に乗ったことはなかった。
電車がひっきりなしにやってくる大宮駅のホームは、通勤時間帯はもちろん、平日の昼間でもそれなりに人がいる。どこから乗ったって電車の中は混んでいるけれど、ホーム上を歩き、できるだけ乗車待ちの人が少ない列に並ぶ。ここ誰も人いないじゃん、とホームに引かれたオレンジ色の線に近づいて、グリーン車の乗車口か〜と肩を落として通り過ぎることがこれまでの人生で何度かあった。
人がぎゅうぎゅうに詰め込まれている車両がホームに滑り込む。緩やかに速度を下げていく電車は中の様子がよく見える。混み合った車両の、真ん中の方にある二階建てのグリーン車だけは席にゆとりがあって、立っている人もいない。いいなぁと羨望を向けながらも、まあ10分くらいしか乗らないからなぁと私は人混みに吸い込まれてきた。
そんなことを社会人になってから幾度となく繰り返してきたので、ちょっとグリーン車に乗ってみたかったのだ。
しかし、私はケチな性分なので、短い距離をグリーン車で行くことはできなかった。
春の終わりに、どちらかといえば山派の夫が「次の旅行は海がいいね」と言ったとき、私の頭の中に、深緑色のラインが入った電車が勢いよく滑り込んできた。ぴょんと一度乗ってしまえば、その電車は私たちを乗り換えなしで太平洋まで運んでくれる。

世間が夏休みに入った平日、学校から持ち帰った朝顔に娘がペットボトルでたっぷりと水を浴びせるのを見届けて、家を出た。
大宮駅の構内で入手した駅弁3つと家族全員分の荷物を詰め込んだSサイズスーツケースを引っ提げて、私はついに念願のグリーン車に乗り込んだ。
高い方が景色がいいに違いない、という単純な理由で二階に繋がる階段を登る。
座席の上にはモバイルSuicaを読み込む機械が内蔵されていて、使用中の席は赤いライトが青に変わっている、というのがグリーン車の乗り方をスマートフォンで調べたときに得た知識だった。
平日の昼間であるが車内にはちらほら人が座っていた。しかし、頭上のライトは全て赤。
はて、と首を傾げた私たちはとりあえず誰も座っておらず、荷物も置いていない座席に腰を下ろした。
グリーンに乗る方法は、モバイルSuicaのグリーン券を購入する(これが一番料金が安いらしい)か、きっぷ売り場で磁気グリーン券を購入するか、車内でグリーン券を購入するか、の3択だ。私はモバイルSuicaを持っていないので、磁気グリーン券を購入した。
グリーン車には乗務員さんがいて、グリーン券を確認する、というのも事前知識として得ていたけれど、赤いランプがついた座席に座っていると少しドキドキした。悪いことなんて何もしてないけれど、対向車線から赤色灯をピカピカ点灯させたパトカーが来るとちょっとドキッとするみたいな、そんな感じだ。
しばらくすると制服姿の女性が現れたので、私は3人分の磁気グリーン券を彼女に見せた。決して無断乗車ではありません。それを口に出すことはしなかったが、娘曰く、このときの私はいつもよりキリッとした顔をしていたらしい。
車内のランプが全て赤く灯っている理由はすぐにわかった。座席の上のランプは全て故障していて、前の席に座ったサラリーマン風の男性がモバイルSuicaを翳しても色が変わらなかったのはそのせいだった。

電車はゆっくりと進み出した。加速はするが、新幹線ほどではない。リクライニングする座席から見る景色は、普通電車と変わらない速さで流れていく。
大宮から東京。徐々に高いビルが増えて、密度を増した。まさにコンクリートジャングルといった景色は横浜あたりまで続き、また少しずつ建物が小さくなって行った。
途中、乗務員さんが「崎陽軒のシュウマイはいかがですか」と座席の間を通り過ぎていった。シュウマイ。うとうとしていた娘がその言葉にぴくりと反応したけれど、起き上がったときには既に乗務員さんの姿は後方へと消えていた。一瞬、崎陽軒のお弁当なら買ってもよかったかなぁ、なんて考えたけれど、のちのち調べたところ車内販売の崎陽軒のシュウマイはお弁当ではなく真空パックのものらしいので、呼び止めなかったのは正解だった。

ビルの谷間と、住宅街、それから畑や林を抜けると、パッと視界が開けた。なんとなく座った進行方向に向かって左側の座席。日射を防ぐブラインドを下さなかった窓に、空よりも遥かに濃い蒼が広がった。時々トンネルに遮られながら、青く広い海はどんどん広がっていく。
生まれも育ちも、たぶん骨を埋める場所も、海がない県になる私は一目海が視界に入るだけで心がわっと湧き立つ。社会人になるまで旅行へ行くという習慣がなかった私には、海は遠い世界だった。目の前に広がる海がただただ美しいだけのものに見えてしまうのは、押し寄せる波の激しさも、荒ぶる波の恐ろしさも、テレビ越しにしか見たことがないから、かもしれない。
約2時間半の道のりを越え、電車は終点の熱海駅に到着した。
リクライニングを元に戻し、登ってきた階段を下って、ホームに降り立つ。
さすが観光地。平日の昼間であるにも関わらず、ホームには旅行客と思しきスーツケースを転がす人がたくさんいた。
「空気がぺったりしてるね」
と娘が言った。喉を通る酸素と、剥き出しの素肌を撫でる風が流れずにぺったりと貼り付く。
「潮風かなぁ」
潮風がどんなものかもわかっていないのに、なんとなくそう答えた。熱海駅は海から近かったから、たぶんそうだ。

電車で約2時間半。長いと思っていた時間はあっという間で、少し怖くなった。朝、今日休みます、なんて会社に電話をかけて、ぴょんと乗り込んでしまえば、昼前にはこの場所に着いてしまう。昔、駅のホームで声を掛けた人に逆方向の電車に乗ってもらう、というテレビ番組を見たことがある。当時はそんなのできるわけないじゃん、と冷ややかな目を向けていたような覚えがあるけれど、今考えればそんなに難しいことではない。
はじめてのグリーン車は想像以上に快適で、結構簡単に遠くに行ける、というぼんやりとして、全く実感を伴っていなかった考えにしっかりと形を与えてくれた。


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