大地と樹木の葬儀。
大きな樹の根元でひっそりと時間を融かしていきたい。
雨が、風が、陽が体に沁み込んで、
私は私であることをだんだんと忘れていく。
小さな樹でもいい、いつか私を糧に伸びていき、
また何かを包み込む大きな腕になるにちがいない。
その下の苔むした場所で、動物が眠り、忙しく虫が這う。
知られず、気付かれず、
森の奥深くでそっと私という命が終わるのをゆめみている。
そのまま魂ごと沈んで大地になりたい。
◆つぶやき写真#18◆
写真 2024/01/03
記 2023/04/26
40歳になる少し前、東日本大震災があった。
私の考え方や生き方が大きく変わったきっかけでもあり、自分の身にも突如終わりがやってくることがあるのだと理解した。
とある仲間の1人から「母親が49歳で亡くなったから、自分もそうなる気がしている。そこから先の自分が思い浮かべられない」と聞かされたことがある。
私の40代は、幼馴染や年の離れた友人が亡くなったことや、震災の記憶もあり、その言葉を万度も思い返していた。
彼女は今50歳を過ぎたが、元気にしていた。49歳の呪いはもう解けたようだった。
それでも50歳という年齢は、ますます私達に死を自覚させるほど、はっきりとした体の不調をもたらしている。
いつの頃からか、お墓に入りたくないなと思い続けている。
私の実家にも夫の実家にも立派なお墓があるけれども、石の下の石に囲まれた狭い場所に、小さなツボにぎゅうぎゅうに詰められて納められることに、意味を見い出せなくなった。
私の亡骸は、なんなら海でも山でも撒いて欲しいと、夫には何度もお願いしたけれど、そういった手間のかかる方法を、残された家族に強いるのもどうなんだという気持ちもある。
それならせめて霊園の中にある樹木葬をお願いしたいと思っている。
それも、納骨室ではなく樹の下に埋めてもらうタイプの樹木葬。
私が死んだ後の最後の頼みだと思って、どうしても聞き入れて欲しい。ただ、夫が先立ったら私は一人で死んでいくことになるわけで、あまりややこしいことを娘に頼みたくもない。
生きている内に全てを準備しておくしかないのだけれど、それ以上に、50歳を過ぎた頃から、ネコのように死ぬ前に姿を隠してしまいたいと思うようになった。(実際のネコがそのようにするのかは不明)
誰にも知られずに、迷惑をかけずに。
まあそれも、急にいなくなったら迷惑でしかない という夫の一言で、それもそうだな と肩を落としているところ。
好きなように死ぬことも、死んだ後に希望通りにしてもらうことも、なかなか難しい話。