最上さんの舞踏を見て、遠野まで来た日
2024年2月4日(日曜日)
昨年末、北原七海監督の映画「トーチ」を見た。その試写会で監督から最上和子氏を紹介いただいた。北原監督は最上さんの舞踏に深く救われた時期があったという。監督とは直島で会った。いつか直島のハースで最上さんに踊ってもらえたらいいですね、という話になり、それはもう額面通りに受け取ることにした。最上さんと渋谷駅まで歩き、握手をして別れた。
しかし僕は最上さんの舞踏は見たことがなかった。お稽古も、舞台も、なかなか見られないらしい。僕にとって最上さんはツイッターで面白いことを呟く押井守監督のお姉さん、という存在だった。ある日ツイッターを見ていたら、《ユリシーズ集会》 純粋所作のこころみ 出演:最上和子、というツイートを見かけた。集会?と思いつつも、応募した。30名の枠に100人ほどの応募があったそうだ。幸運にも抽選に通り、今日観に行くことができた。
14時半。北千住の駅から歩いて数分、住宅街の中に会場がある。入り口で「集会にご参加ですか?」と問われる。やはり集会。はい、と答えると、中にうながされる。20畳くらいの会場の半分が客席、もう半分が空けられ、舞台になっている。客席は数十人の観客でいっぱいだ。正面の一段高くなった部分の右袖に、最上さんがチラチラと見える。客席はしんとしている。時間になり、エアコンの音が静かになる。わずかに温度が下がる。
最上さんが袖から出てくる。歩き、立ち止まる。段からは降りない。この時点で「集会」の意味がわかる。見せ物ではない、演技ではない、共に経験するもの。最上さんとシンクロし、体のさまざまな部分を端から再体験していく。自分の体の中にある何千何万の微細な構造を、真新しい紙の束を捌くように経験していく。見るというよりも、踊り手の体と自分の体の中を対照させ、意識する時間。
細かく分割もするし、つなげて大きな部位としてもみる。全体としてもみる。部分と全体のつながりを感じる。スケールが目まぐるしく変化する。最上さんの体の中がみるみる広くなり、風通しが良くなっていくのがわかる。まるで良い季節の登山のよう。
踊りが30分。休憩を挟んで、1時間の対話の時間があった。これも良かった。舞踏が終わった瞬間、感極まって泣いている女性がいた。僕はエモーショナルな部分というよりも、目を見張るような自然物を体感する、という、一種サイエンティフィックな経験をしていたので、感情的に揺さぶられている彼女を見て、そういう面もあるのか!と感じた。質問や感想があったらなんでも、ということだったので、最上さんではなく、その彼女にどの辺で泣けたのかを聞いてみた。命が踊っているのを見て、内臓が揺すぶられた、と彼女は言っていた。舞踏を感じる良い補助線になった。
見せ物ではなく、自然を経験する場なんだ、スゲー。と僕が思い込んでいるところで、稽古もするし構成も考えますよといわれて、かえって驚くなどした。最上さんは、体の内部を実現するために踊るという。気持ちの良い速い動きのときは、かえって体の中はからっぽになる。反対に、体内の密度を上げていくために試行錯誤していたら、いつの間にかゆっくり動くようになったと聞く。したくてゆっくりになったのではないとも。
外部の大きさを変えずに内部の構造を微細化していくと、密度が上がっていくのかもしれない。この内部を複雑化させていく感じを、僕は体が広くなっていく、と感じたようだ。体感的に、身長180メートルくらいな感じ。腕の中をわーきゃー言いながら歩けるくらい広くなった。自在感。
日常生活の中で抱えきれなくなった感情を創作の糧にしますか、という質問もあった。最上さんは、物事は次元を上げないと解決しない、と答えていた。波打ち際でチャプチャプやっていても仕方がないと。
終始ポジティブだった進行役の女性も素敵だった。この舞台のしつらえを設計している監督の飯田さんと話せたのも良かった。舞踏は経験した実時間より、余韻を味わう時間のほうが長いという。なんだかたくさんもらってしまった。ありがとうございました。
その後、東北道を7時間走り、無事遠野へ。
ではまた明日!
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