つぼみのおもうところ
つぼみのおもうところ
「ひょっとして、って言うけど、ひょっと、って何してるの?」
放課後、何度目かのチャイムが鳴る。最早何を知らせているチャイムなのか分からない。というより、何もかもすべてがなんにも分かりません、呆れています、といった表情のマチコがマツコに聞いた。
「うん待って、調べる」
マツコはすぐ調べてくれる。調べてくれるな、この子。とマチコはいつも思っている。最早思っているというより、想っている、と言っても過言ではないので「想っている」とマチコは言った。
「え?」
「あ。何でもない。調べられた?」
「うん。【「ふと」の変化したもの。「ふと」は、平安時代の文献にも用例が見られ「ひょっと」は江戸時代初期に「ふと」から派生したであろう語。擬態語。物が突き出るさま。にゅっと。】だって」マツコは端末から顔を上げ、ムルダー&トゥアレンの左の方のような顔面で答えた。
「え、まってまってまってまって。え? まって。ひょっとなの? にゅっとなの?」
「うん、最終的には、にゅっと」
「それって……にゅっとして、なんじゃん」
「うん完全に、にゅっとして、だよそれは」マツコはそう言うと日木山里の田ノ神サァそっくりの顔面で笑う。しかしマチコの方はというと、口を開いている方の狛犬のような顔面で固まってしまっていた。——ひょっとしてって何にしてるのかな、と思ってたらにゅっとしてた。っていうかマツコの反応的に、にゅっとしてるのは当たり前だよ、みたいな感じだけど……皆ひょっとして「ひょっとして」という語を使用する時はにゅっとしてるって事? マジ? 今私は本来にゅっとしてなきゃって事? やば、わかんないわかんない何何何——などと、アメーバのような半透明のぐにゃぐにゃした不安をぶわぶわと生成してしまっていたのである。
「え、何、どうしたのマチコ。口を開いている方の狛犬のような顔面してるけど大丈夫?」と、マツコは即座に口を開いている方の狛犬の画像を調べ上げ、マチコに見せる。
「口を開いている方の狛犬。ブス! ザルドス! てかマツコはさぁ、ずっとさぁ……にゅっとしてきてたの?」
「マジ何言ってるかわかんないけど大丈夫だから早くいつもの顔に戻って」
そう言われ、はっとしたマチコは桃色の細縁眼鏡を中指でくいっとやっていつものモアイ像のような顔面に、す、と戻した。
「……眼鏡の鼻の所が痛いのよね。鼻パット? パッド?」
「Pad」
「発音。発音良すぎて逆に聞き取れんて」
「鼻パ、んド!」
「ドか。またすぐ忘れちゃいそうだけど。ありがとう」
感謝の言葉を受けたマツコは穏やかに微笑み、小さく首を横に振る。マツコはマチコの発する「ありがとう」がとても好きなのだった。マチコの発する言葉は時折ほんの僅かに特徴的な発音を見せ、その特徴がこの「ありがとう」にも表れるのだった。どんな「ありがとう」かと言うと「ありかとう」と聞こえる「ありがとう」だった。この「ありかとう」と聞こえる「ありがとう」を聞くとマツコは心にそっと白詰草の花冠を乗せられたかのようなぽわっとした気持ちになり、そんなのどうしたって微笑んでしまうのだった。映画『レオン』のナタリー・ポートマン演じる少女マチルダも「OK」と言うとき「オーケイ」の「ケ」の部分が「ケ」と「カ」の中間というか殆ど「オーカイ」と言っているような発音をしており、マツコはそれもかなりのお気に入りとしていたが、やはりマチコの「ありかとう」に勝るものではなかった。それに関してはマツコの心の中のマチルダも甚だ同意見らしく、マツコの心の中のマチルダは今、小さく微笑み「OK」と呟いた。
「オーカイ」
「え?」
「あ。何でもない。鼻パッド、後で眼鏡屋さんに相談しにいこうよ」
「え、一緒に来てくれるの?」
「うん。私もそろそろ眼鏡必要かもだし」
「鴨だしの他に鳥の出汁ってあるのかな」
「待って、調べる」
「想っている」
「え?」
「あ。何でもない」
春の柔らかな風が二人の間をゆき過ぎる。
「えぇ〜、何よ。なぁにぃ?」
ふたりを撫でて過ぎゆくこの風は、何処から来て、そして何処へ辿り着くのだろう。
「世の中には知らなくてもいい事もあるのよ。でも、いつも調べてくれてありかとう」
途方もないこの世界で、人は一体何を掴めるというのだろう。
「ふふふふへぇ〜。くう〜、調べてぇ〜! マチコの頭頂部、炊飯器みたいにパカって開かないのかよ〜、開けて調べさせろよ〜!」
桜の蕾はまだ見ぬこの世界をどう感じ取り、どんな夢を見ているのだろう。
マチコは思う。今、小畠八幡宮の狛犬のような顔面になっている事をマツコは分かっているのかな。かわいいな。この狛犬の隣でなら私も口を開いている方の狛犬でもいいかな。否、やっぱり嫌。ブス! ザルドス! せめて口は閉じていたい。阿吽で言うところの吽。というか、阿吽って、あ・うん、じゃなくて、あ・ん、の方が良くない? というか、ん、の字を作ったなら、うん、はこの世にいらなくない?
「ねぇ、マツコ」
「オーカイ。調べましょう」
ゆっくりと開き始めた蕾が風に揺れている。
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