東京の街角にまだ希望はあるか
〈上野旅日記1〉
ストリートゆうても、ファッションの話でも、音楽の話でも、政治の話でもありません。今回は呑みの話です。
まちで呑む。まちを呑む。
先日、東京に行った話のつづき。
上野は御徒町の路上をさまよいながらみんなで呑むという、なんやねんそれ!な企画があったのでさっそく参加した次第。
御徒町の人気立ち呑み屋「魚草」が企画した出前な移動呑み処。題して「みちくさ」。
↑「魚草」FBから拝借
あいにくの雨をものともせず、2グループ(各8名)に分かれて魚草前から出発。まずはガード下の「おとなのおもちゃ」屋さんの前で乾杯。
周りからの好奇な視線。地べたに降りた(堕ちた?)ような独特の安心感。街の雑踏にくるまれて呑む、日本酒とあての旨いこと。そして同行者たちとの奇妙な連帯感。
そのあとも魚草店主の大橋磨州くんの案内で上野〜不忍池まで、ところどころのディープスポットで散策&乾杯。まちで呑む。と言うより、まちを肴に呑む。いやあ久々に遊んだなって感じ。
写真はすべて小林くん(後述)撮影。左手前が企画者の磨州くん。
ありがとう。みんな。
遊んでいるのか。遊ばされているのか。
そうやって路上で呑んでたら、視界の向こうに居酒屋ビルの光る看板。鳥貴族とか金の蔵とかの。
「あん中で飲んでるヤツらより、雨の中、外で呑んでるオレたちの方が贅沢な時間過ごしてるよな。」と素直に思える。もちろん酔っ払って寒さや羞恥心がどっか行っとるせいもあるが。
なんかああゆう居酒屋って味もそっけもない席に座らされて、味もそっけもないメニューから、味もそっけもない料理を選ぶ。呑んでるとゆうより、呑まされてるんちゃうやろか。なんか客単価で測られてるだけの存在になった気がする。
遊びって、「遊びたい」という自分たちの思いが出発点であり、ゴールでもあるはず。
なのにちょっと油断すると「安く呑むならこれですよ」「高いサービスならこれでございますよ」って遊びの主導権取られてしもて、単なる消費者(業界用語で「お客様」とも言う)に堕とされてしまう。
移動屋台というか移動テーブルにお猪口やあてがセットされてる。8品くらいあったかな。飲み物込み2,000円。
じつはテーブルの表面も柿渋を塗った和紙を張り込んだ手作り製。雨にも耐えかつ自然の趣きが上野の屋外空間に意外とマッチしてた。
客と店。サービス消費者と提供者の関係を超えて。
その点が「みちくさ」は違う。
店主が、こんなアホなこと(失礼)できるんちゃうか。って呼びかけて、客が応える。と言うか、応えたヤツが客になる。
ここにあるのは普通の客と店、つまり単なるサービスの消費者と提供者の関係ではなくて、「これはおもしろい」「これがやりたい」という同好の士、共犯者の関係。新しいモノを一緒に創造してゆくコラボな関係。
店主の企画と呼びかけがまずは秀逸なのだが、応える者がいなければ起動しない。つまりは応える客たちの「おもしろい」「一緒に遊びたい」という遊びへの主体性がすべての出発点になっている。
店(ミセ)のダイナミズム
これが本来、市(イチ)や店(ミセ)が持っていたダイナミズムではないだろうか。何かおもしろいこと、日常を少しだけはみ出すことを求めて人が行き交う場に、「あんたら、こんなんどうや」と呼びかける者が現れ、「だったらこうしてくれや」「いやオレが欲しいのんはこうやねん」などと客になる者たちが注文をつけて、新しいなにかが生まれる。芸能も食いもん屋も小物屋もそうやって育ってきたんとちゃうやろか(べつに中世史の専門家でもなんでもないんで単なる想像やけど)。
「みちくさ」を企画した「魚草」もまた、このダイナミズムが息づいている活気のある立ち呑みだ。(ここでだらだら書くのも野暮。行けばわかる。)
で、私がここで書きたいのは、「みちくさ」のあとハシゴした店。「みちくさ」で一緒に呑んで仲良くなった男(小林くん)がやってる、やはりガード下の北京飲み屋「老酒舗」。
老酒舗。写真ないねん。思い出して描いたスケッチでかんべん。
おもしろいことあると写真撮るよりも没入してまう人間で・・・。
黒縁メガネかけてるんが自分で生中つぎに行ってる小林くん。
もう一軒
この店も発案者(小林くん)の「あんたら、こんなんどうや」がハンパない。
編集者でもある小林くんが、紙媒体やWebでの「情報」の提供に飽き足らず、自分の好きな「北京」をリアルな空間として御徒町に持ってきてしまった。という店。だという。
北京の老舗が東京に根づいたらこんなんちゃうかって切り口で、細部までこだわった内装や什器。中国語と日本語が混在するメニューはわざわざ和紙に印刷して、古びた感じを出すために揉みしだいてある。
そして極めつけは現地から来ている店員さんたち。北京語(おそらく)で談笑しながら(日本的な感覚やと)だらだらと、和気あいあいと店をやってる。厨房もオープンで店中に北京語(おそらく。しつこい)が飛び交い、店に入ってきた客たちはまさに北京の一角に迷い込んだかのような錯覚におちいる。中国人のお客さんも目につく。
とうぜん料理も日本の中華料理屋では見たことのないようなものが多いが、これが旨い。
異国の味や雰囲気をコピーするだけのエスニックレストランは多いし、また、現地の人が開く店も美味しいところが多い。
しかし、接客も含めた空間全体の体験を「東京に根づいた異国文化」としてプロデュースするというのは、しかもそれがつくりもの臭くなく自然に成立しているというのは、驚きだ。
このすばらしい空間を私たちはたんに堪能(消費)するだけでなく、小林くんの発案に応え、呑んべえの主体性を持って盛り上げて行かなくてはと思う。と言っても呑んべえの主体性なんてまずは自主的に呑みに行くだけだが。北京語(おそらく。さらにしつこい)の飛び交う素敵な異空間に。
なんかお店紹介みたいな話になってしもたけど、決してステマでもパプリシティでもありません。僕が、これは新しいと思ったから、できれば行って体感してほしいと思ったから書いたまで。
そしてまた資本の論理(利益率がすべて!)に沈みつつある(ように見える)東京が、も一度、新しいこと、おもしろいこと、を生みだす、都市のダイナミズムを取り戻すことを願って、書いている。
魚草 「みちくさ」情報もこちらで
https://www.facebook.com/Uokusa/
老酒舗
http://www.ajibo.jp/okachimachi2.html
いや、最高。