スケールアウトせえへん経済を
〈上野旅日記2〉
山手線の上野駅のホームで、すっかり低くなった秋の陽ざしが踊っている。平日だというのにサラリーマンをろくに見かけない。
東京の街が、コロナのおかげでスローダウンしていて、それがとても心地よい。
バブルからこちら、ひたすら拡大を目指し、スケールアウトしてきた経済やビジネスが、ひとの暮らしのサイズに、また戻ろうとしているのかもしれへんな。
そうだといいのだけれど。
スケールアウトという病
僕がスケールアウトってゆう言葉を知ったのはまさにバブルの頃、開発ラッシュの東京やった。あのころの東京という畑には次々とキテレツなビルが生えてきてて、奇妙な外観にはすぐ馴れてしまうのだけど、街を歩いていてやたらと疲れてしまったもんだ。
それは、建築物が人間の身体感覚を超えてしまったからだよ。と建築の本が教えてくれた。
巨大すぎて、平板すぎて、高すぎて、遠すぎる。
例えば都庁の広場。あんなところで、ひとは休んだり、おしゃべりしたり、たたずんだりは、けしてしない。
なので、上野
なので、スローダウンが似合う街、気だるさを許容してくれる街、上野の旅日記。
昼どきのお風呂屋さんには下町っぽい時間が漂っている。おっちゃんたちがみな一様に、放心したような顔して思い思いにだらだらしてる。蒸したての豚まんみたくほかほかだ。
寿湯。「銭湯図解」って本はこことの出会いがきっかけで生まれたという。
じつは上野来る予定なかったんやけど、日暮里問屋街廻ってて、たまたま喫茶店にこの本あって、読んだら行きたくなってしもて。
私もほかほかの豚まんになって、風呂屋出て、腹が減ったので、角の蕎麦屋でビールと鴨せいろ。
ビールには板わさとキツネの揚げのアテがついてくるわ、鴨のつゆは熱うてしっかりうまいわ、ちゃんと蕎麦湯も置いてくれるわ。名も無い蕎麦屋で普通にこういうことできるんが、文化やと思う。蕎麦に限ってはやっぱり東京やな。
小さい蕎麦屋で、たまたまなんか流行ってへんのんか知らんけど、そんときの客はワシだけで、大将がワシひとりのために料理作ってくれる。ま、当たりまえゆうたら当たりまえの風景やけど、この店の商売はスケールアウトなんかしてへんな。て思た。
一見の客でしかないけど、それでもチェーン店の居酒屋の客よりは、店にとっての存在感、ゆうか存在価値あると思う。
美味しかったわ。てゆうたらそら大将かてうれしそうな顔しはるし、こっちも来てよかったなて思う。
経済にかてサイズ感は必要やろ
店の商売の中にちゃんと客の占める場所がある。店の経済が客の生活の経済サイズとかけ離れてない。せやからビールと鴨せいろで1450円でも高いなんて思わへん。(安いとも思わんけど。)
そらもっと安いチェーン店とか、うまい有名店とかあるやろけど、こういう満足感はない思う。
つまりは味とかコスパとかの問題やなくて、店の経済サイズが問題なんやないやろか。今回は。
チェーン店とかの巨大な売り上げの中では、客は「客単価」という呼び名でしか存在価値が与えられてへん気がする。
そのあとガード下の魚草さん寄ったら磨州くんがいて、釜ヶ崎のココルームとか、自治とか主体性とかの話をした。
魚草から眺める街の風景。
魚草のことについては先月の旅日記「東京の街角にまだ希望はあるか」もご覧ください。
上野、最高やな。左側の赤い魚の看板が磨州くんのやってる魚草。
手前のトルコ人は向かいのシシケバブ屋台のおやじ。
街の賑わいを作る要因のひとつはスケールアウトしてへん経済なんかもしらん。
店やってるひとやスタッフがハンドリングできる範囲の、そして客も参加してるって自覚できるサイズの経済感が、身の丈、いや「街の丈」サイズの商売が、いま必要なんやないやろか。
経済にかてサイズ感は必要やろ。大きすぎれば安心できる居場所ではなくなってしまう。
なんてことを、帰りの新幹線で考えた。
ロング缶より背伸びしてる構築物はスケールアウトしてるという、ただの酔っ払い基準(スケール)
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