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【かわいい・きれい・かっこいい】のその先を見る

自問自答ファッションのあきやさんからの問いかけに、「かわいい・きれい・かっこいい」と自分に言ってあげたらどう思いますか? 他人に言われたらどう思いますか? というものがある。


さて、わたしはどう思うだろう。
いそいそと脳内に「かわいい」「きれい」「かっこいい」というカードを並べてみる。
そしてそれを手にする想像したとき、わりと平気で持てるかも、と思った。

自分が自分に対して言うとき。
例えば、その日ヘアアレンジが上手く出来て「かわいい」と思ったり、メイクをして「きれい」と思ったり、バタバタと支度してさあ行くぞ!と颯爽と出掛けていく姿を「かっこいい」と思ったりするときの気持ちは等しく「いいね」である。
自分が自分を肯定や鼓舞するためのもの。肯定できれば言葉なんて、その時々の環境と感情で変えてしまえる。
特に自分発のときは送った言葉がそのまま返ってくるので素直に受け取ることができる。相違がなくてありがたい。

対して、誰かに言われたとき。
かわいい、きれい、かっこいいーーそれは相手の価値観のよるものだと思っている。なのでただ普通に「ありがとう」と返す。
例えば、カブトムシのことを「コロンとしていてかわいい」「光沢があってきれい」「ツノがあってかっこいい」などと色んな角度から見ることができる。
それと同じで、人も3つの要素をまるっと全部持っていて(比率に差はあれど)、それをどうすくいあげるかは相手次第だ。こちらではコントロールも出来ないし、責任もない。
どちらかというと「自分にはこう見えます」という相手の自己紹介に近いよねという思いもある。

そして何より、受け取り手のわたしを信用できない。
体調の悪さや疲れでゆらいでいるとき、いつもなら嬉しいと思える言葉でも反感を覚えてしまう。
発する言葉が相手次第なら、受け取り方は自分次第だ。
褒めるということは「私はあなたのこういうところが良いと思っています」ということを伝える行為であるので、それならばいっそ言葉よりもその行為を受け取りたいと願っている。
ちなみに褒めるふりして褒めていない人たちは華麗にスルーする所存。

評価されたくない、という心があって、「人に言われて嬉しい言葉」も実はちょっと悩ましい。
褒め言葉であっても「評価された言葉」には変わりがない。褒められること自体は嬉しいし、わたしも軽率に褒めてしまうタイプだけれど、そういうラベリングをされてるな、と冷静な部分では思ってしまう。
煙にまきたい欲望がある。

答えはクローゼットにねむる

以前のnoteでこういうことを書いたが(ちょっと毒がありましたね)、言葉を受け取りたくないようで、それはちょっとどうなのと思わなくない。
違うな、言葉を受け取りたくないからこそ行為を重視するのか。
自分にピントを合わせて欲しくない。ソール・ライターの写真のように、風景に混じり合っていたい、みたいな本音があるような気がしている。
わたしが言われて嬉しい言葉は「雰囲気があるね」なので、その中身のなさが逆に安心するのかもしれない。ふんわりとした枠でしかないので。

だからわたしは、
かわいい・きれい・かっこいいは全部同じ意味でとらえている。
その先にある「肯定する」「褒める」ことには変わりはないのだから。


・・・

自分のコンセプトを動詞の「つつむ」にしたのも、さもありなん。
どうやら行為を注視してしまうタイプらしい。
ただ体を動かすのが楽しいちいさな子どもみたい。そこに勝敗やダイエットという概念がないように、包むという行為の先にどう枝葉が広がっていこうとも些細なことである。
わたしはそれさえしていれば満足なのだから。


わたしを区切らないで
,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡ひろがっていく 一行の詩

新川和江「わたしを束ねないで」

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