名馬紹介 シンボリルドルフ
【名馬紹介 シンボリルドルフ】
史上初めて全勝で三冠クラシックを制し、その強さから「皇帝」と呼ばれた、シンボリルドルフ(1981年生 牡)のことを紹介します。
個人的には、彼が日本近代競馬の扉を開けて、世界との距離感を計り、また一気に差を詰めた気がします。
◆ 戦績など
生涯成績は16戦13勝(国内だけだと15戦13勝)、G1タイトル7勝と完璧です。そのレースっぷりは好位抜け出し型で、ヒヤヒヤもしない横綱相撲です。
彼を語る時は勝ったレースではなく、負けたレース(特に国内の2戦)が語られることが多い印象です。
国内で負けた2戦は、相応の理由があります。一つは菊花賞から中一週の強行日程で、カツラギエースの逃げ切り勝ちを許したジャパンCです。
もう一つは夏場の体調不良からの急仕上げで、ゴール前やや伸びを欠いてギャロップダイナの急襲を受けた秋天です。なお、負けた秋天の夜、シンボリルドルフは厩舎で悔し涙を流したと言われます。
◆ 彼の思い出 その1 弥生賞
3戦3勝で迎えた年明け初戦の弥生賞は、レース前から、とても印象に残っています。
レースは共同通信杯を完璧なレースっぷりで快勝し、4戦4勝と同じく無敗だった、好敵手のビゼンニシキとの初顔合わせです。クラシックを前に、早速世代最強馬決定戦が行なわれると、大変な盛り上がりを見せました。
また、そこまで両馬の主戦は共に、当時のトップジョッキー岡部騎手でした。彼がどちらの馬を選ぶのかに注目が集まりました。しかし、彼は何の躊躇いもなくシンボリルドルフを選択しました。
ビゼンニシキの共同通信杯の勝ちっぷりがあまりにも鮮やかだったこともあって、1番人気はビゼンニシキに譲りました。
しかし、何回戦ってもビゼンニシキはシンボリルドルフに勝てないと思わせるほどの、圧倒的な勝ちっぷりを見せました。
この弥生賞も続く皐月賞も、ビゼンニシキがトップスピードに乗るのを待ってから、ちょっとだけ気合い入れて突き放した感じです。まるでビゼンニシキを子ども扱いしたようなレースっぷりでした。
ここまで他を寄せ付けない強い馬を見たのは、個人的には、トウショウボーイやテンポイント以来でした。
◆ 彼の思い出 その2 ダービー
今度はレース中からレース後にかけて驚きました。向正面で岡部騎手が上位進出を促すも、この日のシンボリルドルフの反応は鈍く、「よもやよもや」と感じました。
直線残り200mの時点では、負けも覚悟するような場所と伸び脚でした。しかし、そこから加速すると、キッチリ先行馬をかわして、最後は後続を突き放しました。
驚いたのはレース後の岡部騎手のコメントです。当時No.1ジョッキーだった岡部騎手をもってして「ルドルフに競馬を教えてもらった」と語ったことです。
ルドルフは向正面で「未だ仕掛けるには早い」と伝え、直線で「そろそろ行くよ」と伝えたようです。
◆ 彼の思い出 その3 三冠馬対決
一年前にミスターシービーというセントライトとシンザンに次ぐ、史上3頭目の三冠馬が誕生しています。
今日に至るまで牡馬の三冠馬同士の対決は、彼ら2頭の戦いだけです。
ミスターシービーは後方一気という派手なレースっぷりから、とても人気がありました。しかし、3回の両雄の戦いは全てシンボリルドルフが先着し、結果的に実力差を見せつけました。
◆ 彼の思い出 その4 国内最終戦 有馬記念
4歳暮れの有馬記念は、国内最終戦となりました。前評判は一年後輩で皐月賞と菊花賞の二冠馬
シンザンから20年を経て5冠馬(最終的には7冠馬)が現れました。
そしてシンボリルドルフから20年を経て、ディープインパクトが登場します。
◆ 美しき馬体とランニングフォーム
彼は一目で最上質の柔らかい筋肉と分かる、素晴らしい馬体でした。その筋肉を用いて大きなストライドで走るランニングフォームは、観るものを魅了します。
本当に惚れ惚れとする美しさです。
また、上記の通りの好位から抜け出すレース運びは、負けるイメージが全く湧かない名馬です。彼の調教師の野平氏が「競馬には絶対はない。だがシンボリルドルフには絶対がある」と述べたほどです。
◆ 種牡馬として
当時は未だ輸入種牡馬全盛時代で、種牡馬成績は飛び抜けたものではありませんでしたが、代表産駒にトウカイテイオーがいます。
シンボリルドルフとトウカイテイオーの親子は、ダービー馬からダービー馬、しかも無敗のダービー馬親子ということで、とてもロマンを感じるものです。
◆ 最後に
彼は他の歴代の優駿たちと比べても、「完全無欠」の名馬だったと思います。負ける要素やハラハラする展開が最も少なかったと感じます。
3歳時にビゼンニシキ、古馬になってミスターシービー、最終戦となった有馬記念ではミホシンザンと、ライバルたちを完膚なきまでに倒したことから、その強さに比肩する存在はありませんでした。まさに、孤高の絶対王者です。
当然そうなると、アスリートはさらなる高みを目指し、世界へと飛び立ちます。しかし、彼自身の海外戦績は1戦のみ、且つ繋靭帯炎を発症したことで実力を出し切れず6着に敗れました。
それでも、国内の絶対王者が海外にその戦いの場を求める流れを作ったパイオニアだったと思います。個人的にはテンポイントの叶わなかった夢が漸く8年後に実現し、いよいよ日本近代競馬の扉が開いたと感じました。
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