結果と過程 合格点は70点
人とは結果だけを追い求めているのか?
その結果になるにあたり、その過程は全く評価されないものなのか?
自分は結果よりも過程を大切にしている。
なぜなら、過程=努力の量だと思っているからである。
都合のいい話だが、自分はテストの形式で結果を残すのが苦手である。
だって、勉強をして、はしていて理解はしていても全てを網羅してテストに挑むことはできないのだから、絶対に満点を取れる保証なんてないのだから。
もし、どこか自信のないところから出題されたら太刀打ちできないからである。
テストなんて作成者の裁量でどうにでもなる。
テストで満点とっても満点という薄っぺらい称号のみ。
だから、そのため、満点なんて取る必要ないと思っている。
こんなもん取れたらラッキーであり、合格点を越えれば勝ちである。
そのため、テストを受ける機会があった際に他人によりも点数が低くても最近はあまり気にしなくなった。
大事なのは学習した際に自分が大事だと思ったことを受け入れること。
それを自分なりに噛み砕いて解釈し、自分のものにする。
だから、最近では他人より点数が低くても全く気にしない。
仮にそこに違いを作るとするならば、結果を顧みてどのような行動を起こすのか。
満点取れた!!はい、オッケ〜 ちょろかったなぁ〜
バカ。
これちがっていたかぁ...何が違かったのかなぁ...
ミスをしたところから学びが生まれる。
成長という点で考えるのなら、ミスした方がよっぽどいい。
復習もできるし、+αがある。
もちろん、満点取りに行っても満点じゃない自分を責めたい気持ちは相当強い。
やっぱ、努力してない人が満点とっているのを見ると相当悔しいし、自分は何をやってんのかな...って自暴自棄になりかねる。
昔はただ何もせずにムカついて終わっていた。
復習が好きな人はいない。
面倒で自分ができないことを認めているからだ。
ただ、何もしない奴と違うことを証明したくて、自分を肯定してあげたくて、行動した結果である。
そんな過程を大事にする自分が最近イライラした話を残す。
以前、会社の研修に参加した際、寝てる人がいた。
そんなのよくいるじゃんって思うかもしれないが、ここで考えるポイントは「寝ちゃった」のか「寝た」のかである。
「この研修の話は聞きたいけど眠い」のか「この研修つまんないから寝よ」だとやはり同じではない。
「寝た」という結果で見れば同じだが、「この研修
は聞きたい」という過程を見過ごしてはならない。
ここでの話をしたいのは、もちろんイライラしたということで、「寝た」奴のことである。
そいつは講師に背を向けて腕を組んで寝たのである。
ある奴は机に伏せて寝てたのである。
おいおいおい。
社会人だろ。
受けたくないとかガキなのか?
お前何歳だよ。
少なくても22歳は超えていると思うが...
受けたくないのなら帰れや。
こんな奴と同じ研修を受けていると思うと恥ずかしさすら覚えた。
講師の話に耳を傾けない。
グループの話し合いにも参加しない。
自分の視界にそいつが入るだけで怒りがこみ上げる。
同じグループだったらぶん殴りたいレベルである。
なぜここまで怒りを覚えるのか。
別にそいつらが何も得ることができないことにかわいそうなんて微塵も思わないし、自分で決めたことならばそれでいい。
本来ならそいつらのことなんて気にしなければいいのに...
ただそういう訳にはいかない。
それは過程を考慮せずに結果だけで判断されてしまう風潮が存在しているからである。
仮にこいつらと同じテストを受け、同じ点数なら同レベルと判断される。
まじで許せない。
テストなんて勉強の仕方でどうにでもなる。
直前に単語だけ詰め込むとか、出題されそうな問題を友達に聞くとか。
確かに、点数が取れない自分にも非はある。
ただ、ここで言いたいのは+αを得た自分と得ていない奴らと同じ評価をされるのはどうだろうか?
あぁ...書いてるだけで頭が沸騰しそう。
一旦落ち着こう。
まずは簡単に他人は信じない。
自分のことを信頼してくれる人を見極め、頼ったり、下についたりしないと取り返しのつかないことになる。
自分はそういう点では慎重であるので踏み外すことはないと思われる。
こういった、不平等の評価を受け始めたことをきっかけに、自分がやってきた過程を大事にすることを始めた。
今仕事をやっていて感じるのは、いかに結果にコミットするため、過程に慎重に向き合うのかが問われていると思う。
・教わったこと一つに対してどんな+αがあるのだろうか。
・この結果を振り返ってみて何か足りなかったことはあるのだろうか。
今は分からなくてもいつかそれが活きてくる。
それを信じて結果の見えない長い長い過程を進んでいく。