20代最後の年、僕は異邦の地を歩いた (3)
巡礼の始まり
最初に日本円をユーロに変えたとき、「フランスから出るときにBuyBackを貰ってね」と言われたと認識していた。
しかし換金所に行っても良く分からず、結局そのまま出発することとなった。
なんとなく損した気分での旅出だった。
サン・ジャン・ピ・エド・ポーへ出発
列車から外を眺めていた。
市内を出たらひたすら平原が続いていた。
山も森もなくまったいらだ。
やっぱり日本と比べると空白が多い。
空白を埋めようと色々と詰め込みたがる日本人の感覚は、空白の少ない日本の環境からきているのかもしれない。
列車の中で、小学生ぐらいの小さい少女に声をかけられた。
「私ちょっと席を外すから荷物見ていてね。」
反射的にOKと答えたが、正直驚いていた。
小さい少女が1人で電車に乗って、見知らぬ人に話かけ、しかもその見知らぬ人が外国人で、その人に荷物番をお願いしたのだ。
日本だと必ず親が常に一緒にいるような年齢だ。
それに「危ないから知らない人に話しかけるな」と教わってることだろう。
こういう細かい日常でも日本との違いを感じた。
日本人のシャイさは、知らない人は怖いということを、幼少期から植えつけられていることにあるのかもしれない。
ベイヨンにて初の巡礼者に会う。
「この方面で良いのかい?」
そして最初の目的地サン・ジャン・ピ・エド・ポーに到着した。
Wifiを契約せず、巡礼は「聖地サンティアゴ巡礼」という本頼りだった。
本には駅を出て左の坂道を登ると書いてある。
しかし、左側に道は2本ありどれも坂道っちゃ坂道だしそうじゃないとも言える。
いく前は、本の通りに行けばたどり着くと盲信していた。
GoogleMapもない中で早速計画性のなさに苦しむことになる。
maps.meでピン挿しておけばよかった。
他に何人か居た巡礼者も道に迷っていたが、しばらくさまよっていると道を見つけたらしい。
合流し、ついていくことにした。
まず宿に行って、寝場所の手配をする。
そして巡礼者の証、クレデンシャルを取りに行くのだ。
待合室で待っていると韓国人と思われて韓国語のパンフレットを出された。
巡礼者は韓国人が多く、道中はひたすら韓国人として扱われることになる
韓国語には何度も出会うが、日本語には出会わないのだ。
最初の宿とクレデンシャル
朝起きて食堂に行くと、韓国人の老人に韓国語でひたすら話しかけられた。
「I’m Japanese」って言っても通じてないようだ。
周りの韓国人が「イルボン!(日本人)」って言っても、話しかけるのを辞めない。
どう見ても通じてないのに話しかけ続ける根性はすごい。
この経験を経て、真っ先に「私は日本人です(チョヌンイルボンサラニムニダ)」という韓国語を暗記した。
朝6時ぐらいに出発する。
寒さを警戒したが日本と同じかそれより少し寒くないぐらいだった。
宿を出ると雨が降っていた。
街灯もほとんどなく、街を抜けるとまさに真っ暗だ。
道中では全ての分岐点に貝殻の印が書いており、その印の方向をひたすら進んでいく。
しかし真っ暗で見えないため、携帯のライトで照らしながらも見落としてしまうことが多々あった。
貰った地図は、雨でもうぐじゃぐじゃだ。
電波がなくても使える地図アプリ、maps.meには何度も助けられた。
後に理解するのだが、本に書いてあったタイムスケジュールはピークの夏に合わせたものだった。
真冬に夏と同じ時間に出ても、早すぎるのは当たり前だった。
西洋では挨拶が大事だと聞いたことがある。
どんな人でも自国内に入ってこれる状況下において、「自分は安全な人であること」を伝えることは重要だからだ。
向こうから見たら自分は謎のアジア人男性でしかないのだから、立ち振る舞いは重要だろう。
英語があまり使えないことを補うように、旅の中では現地の言葉をなるべく使うようにした。
水を買いに店に入ると、挨拶がボンジュールからオラにかわっていた。
どうやらスペインに入ったらしい。
全ての分岐点に貝殻の印が書いており、その方向をひたすら進んでいく。
ところどころ雪は残っていたが、2月頭にはもうほとんど溶けかけていた。
通らせる気がない道に体力を奪われる。
牧場を越えると、最初の目的地ロンセス・バージェスにつく。
街ではなくデカい教会があるだけだった。
このロンセス・バージェスは、巡礼の最初のチェックポイントだ。
そのためここに泊まるか、先に進むかを決める必要があった。
時間は11時だ。
それに日数的に、通常の1.5倍ぐらいのペースで進まないといけない。
もう少し先の街まで目指すことにしよう。
次の目的地のズヒリまでは遠いが、幸い街は間に何個もあるようだ。
しかしこれが大きな誤算だった。
かつてヘミングフェイが好んで滞在したと言われるブルデゲの街。
街を歩いても人っ子一人いない。
これ大丈夫か?という気持ちが芽生えてくる。
道中は誰にも出会わず、動物すらいない。
ひたすら田舎道を歩いていく。
何時間も歩いて、遠くに街が見えた時の感動はまさにRPG!
エスピナールに到着。
やはり泊まれるどころか、食事も、水すら買える様子はない。
飲める水に椅子もついてる休憩所を発見。
まさにHPを回復する「回復の泉」だった。
椅子に座り、水を飲みながら情報を整理する。
今日、ここまで31km歩いている。
次のでかい街はズビリで、そこまであと16kmだ。
時速4kmで歩いたとして、約4時間だ。
携帯電話の電池もそろそろ切れそうだった。
ロンセス・バージェスの教会で泊まらなかったことを後悔した。
しかし、もう戻る選択肢はない。
ペットボトルに水を詰める。覚悟を決めた。
その後、何時間歩いただろうか?
ペットボトルの水はもうすでに空になっていた。
道中、山道で川の水を汲んで飲んだ。
枯葉の味がしてすぐに吐いた。
もう足も限界だった。
途中から雨が降り出したのでペットボトルを上に向けて雨水を貯めるようにして歩いた。
数分に一回飲める水滴が前に進む活力になった。
この期間中は写真も記憶もない。
無心で歩き続けていた。
しかしこの瞬間だけは覚えている。
「橋が見えた、橋の街ズビリだ!」
嬉しくて思わず走ったのはいつぶりだろう?
6時から16時までの10時間。やっと終わった。
もう足も動かない中、嬉しくて走ったのは何年ぶりだろう?
巡礼者向けの宿は、公営と私営がある。
公営のほうが安いが、私営のほうが綺麗なことが多いそうだ。
公営のアルペルゲの場所がわからなかったため、ちょうど宿のおじさんが顔出してた私営のアルペルゲに泊めてもらうことにした。
宿のおじさんは英語が通じないけど良い人だった。
部屋で少し休んでからキッチンに降りて食材を漁る。
昼飯も食べてないので食事をしたい。
が、食べれそうなものはない。
おじさんに聞くも、スーパーは休みでやってないらしい。
困った様子で立っていると、他の宿泊者の韓国人が「みんな近くのレストランに行ったよ」って教えてくれた。
宿のおじさんに聞くと、店の場所まで連れて行ってくれた。
レストランに着くと、女性2名と、イギリス人3人家族1組、アメリカ人男性1人の集団がいた。
やはり話題は、巡礼の話だった。
「サンジャンからスビリまで歩いたよ」「まじかよ!」みたいな話で盛り上がりつつも、英語力の無さと巡礼について詳しく調べずに来たのがアダとなって、巡礼トークがあまり理解できなかった。
こういう時の話題のためにも、教養が大事だと分かった。
そして何より日本のことを知っているのが重要だと痛感した。
帰り道は3–4で帰ると言われた。
3人家族とそれ以外かな?と思ったら、女性と男性だった。
親子でもバラバラに帰らせるほど、レディファーストが徹底されているのだった。
ここまでの徹底っぷりに感動すら覚える。
宿に戻った時間は、何時だっただろう。
ただ、倒れるように眠りについた。