異説シンデレラ
「シンデレラ! 野良仕事は終わったのかい! 次は薪割りだよ!」
「何をぐずぐずしてるんだい! ほら、今度は掃除だ!」
シンデレラ(灰かぶり)は今日も継母にいじめられています。
シンデレラを産んだ際に母は命を落とし、父は再婚しましたが、これも流行り病で死んでしまいました。
途端に本性を現した継母と連れ子たちは、この家を乗っ取ってしまいました。
お城では近々舞踏会があるそうで、姉たちはドレスをとっかえひっかえ思案していました。
「もっと胸と背中を出した方が王子の目に留まるかしら」
「あら、ここ少しほつれてるわね、シンデレラ、あんた直しておいて」
「そうね、汚らしい灰はつけないでよ」
そういうと姉たちは下品な笑い声をあげました。
いつものことです。
シンデレラの中にドス黒い感情が渦巻きます。あの暖炉の灰かき棒で思い切りこいつらを叩きのめしたら、どれだけ清々するでしょう。
しかし、それで役人に捕まってしまっては代々の家も土地も領主に召し上げられてしまうでしょう。今は雌伏の時です。
その日もシンデレラは一歩一歩、怒りを臍下丹田に沈め、水の入った桶を運んでいました。するとそれを見ていた不気味な人影がありました。
鋭い眼光と黒づくめのローブ。村はずれに住んでいて、近所では気がふれているとも、魔女だとも囁かれている奇怪な老女でした。
老女はよろよろとシンデレラの前に出てきて崩れ落ちました。
「あいたたた。腰が急に痛くて動けないよ。
こりゃあ魔女の一突き(ぎっくり腰)だね……」
「大丈夫? おばあさん?」
「大丈夫なもんかね、あんた見たところ、丈夫そうだね。
ちょいとおぶっていっておくれよ」
「まあ! 仕方ないわね……」
そういうと、シンデレラは老女を背負い歩き始めました。両手には水汲みの桶を抱えたままです。その水面が揺れないのを見て、老女はなぜか満足そうに笑いました。
やがて村はずれの老女の家の前にたどり着きました。
窓は暗幕で隠され、中は見えません。あたりは暗く鬱蒼として、カラスの鳴き声が響いています。
「さあ、ついたわよ、おばあさん」
「ああ、ありがとよ」
そういうや、老婆はシンデレラの背中からとんぼを切って飛び降りました。足音も立てず、まるで猫のような身のこなしです。
「まあ!」
「すまないね、いろいろ試させてもらったよ」
シンデレラは怒りも忘れて聞きました。
「試すって何を? 今の動きは何? おばあさんは何者なの?」
「質問の多い子だね。あたしゃ答える側じゃないよ、≪問う者≫なのさ」
「問う? 何を問うの?」
「あんたの望みだよ。あんたは水を一滴もこぼさずあたしをここまで運んだ。そのことであんたもまたここに運ばれたんだ。こいつは古い契約なのさ。あんたにはどんな望みでも一つ叶う権利がある」
そういうと老女は家の扉を開きました。
ほとんど家具のないがらんとした部屋。石畳の床には白墨で描かれた複雑な大小の円や模様がありました。
――あの女は狂ってる。
――魔女だっていう噂だぜ。
村の人たちの話がシンデレラの頭をよぎります。
魔法陣……契約……魔女……。
背筋がぞっとするのを感じました。
しかし口をついて出たのは自分でも思いもよらない言葉でした。
「……全てよ。私が奪われてきたもの全て。」
「そりゃあいい! じゃああんた、その為なら悪魔に魂が売れるかい?」
「おばあさん、聞こえてなかったの? 私は全てを手に入れると言ったの。何かと引き換えに、ではないわ。私は何も失わずに、何も奪われずに全てを手に入れる。悪魔にくれてやるものは何もないわ。」
そう語るシンデレラの瞳は煌々と燃えていました。まるで暖炉の炎のように!
老女は口が耳まで裂けたかのように笑いました。
「大したもんだよ。気に入った! 今日から毎晩、真夜中になったらここにおいで。誰にも気づかれずに。そうすればあんたは全てを手に入れるだろう。いいね?」
シンデレラは黙って肯きました。
その日からシンデレラは変わりました。
継母たちに押し付けられた仕事を鬼気迫る勢いでこなしていきます。
しかも、そのやり方はどこかいつもと変わっていたのでした。
夜になるとシンデレラはあの床の上の不思議な模様の上を歩かされました。
その重心は水運びのように安定し、足さばきは掃き掃除のように軽やかです。腕は繕い物の針を運ぶようにしなり、背筋は畑に鋤を打ちこむときのように正中線が天地を貫いています。
老婆が教えたのは、見たことのないような舞踊でした。
鋭く、激しく、それでいて優美で繊細でした。
そこには今までの全ての労役のエッセンスが含まれていました。
シンデレラは自分の意思で全身全霊で何かに打ち込むということを生まれて初めて体験しました。その厳しさは継母のいじめどころではありません。しかし疲労の質が全然違うこと、疲れにも心地よい疲れがあることをシンデレラは感じました。それはむしろシンデレラに活力を与えていきました。
――そして舞踏会の夜。
「さあ、最後の仕上げだ。」
そういうと魔女はまだ熱い灰を床にぶちまけました。
「今日はこの上を、裸足で踊るんだ」
シンデレラは一瞬息を吞みました。しかし、迷いはありませんでした。
いつも通りになめらかに第一歩を踏み出します。
そしてまた一歩。
重心がその足に乗る前にまた一歩。
足裏が地につく瞬間には次の一歩が踏み出されていきます。
――速く、迅く、疾く。
つむじ風が吹きぬけたかのような踊りが終わり、ゆるやかに静止したとき、シンデレラの足裏には灰はついておらず、やけどもありませんでした。
「見事だよ。≪灰かぶらず≫のシンデレラ、今日からそれがあんたの二つ名だ。今のあんたならこれを履いて踊っても大丈夫だろう」
そういうと老女はガラスの靴をシンデレラに渡しました。
「この国でこれを履いて踊れるのはあんただけだろう。こいつは魔法なんかじゃない。いつまでたっても消えないあんたの修練が生んだものさ。あたしがあんたにあげられるのは、あとはこのドレスくらいだよ。あたしが若いころに使ってたもんだ」
そういうとシンデレラはドレスを受け取りました。それは見たことのないような不思議なドレスでした。
「さあ、行っておいで。……そうだ、だが、あんたは名乗ったりしちゃいけないよ。そして12時になったらこの靴を片方だけ置いて来るんだ」
さて、ここから先は知っての通りの話です。
お城に集まった客たちはシンデレラの見たことのないドレスに驚き、そしてガラスの靴を割らず、音もさせず、滑るように踊る技量に二度驚きました。王子はたちまち魅了され、舞踏会を熱狂させたシンデレラはガラスの靴を片方だけ残しバルコニーから飛び降り、城壁を走って駆け上がり忽然と消えました。
翌朝、王子は国中にお触れを出し、靴の持ち主は城の前の広場に来てほしいと呼びかけました。
シンデレラは無言で進み出ました。こんな靴で踊れるのは他に誰もいません。皆が固唾を呑んで見守る中、シンデレラは再びあの踊りを踊りました。
その踊りは民衆を熱狂させました。さながらサバトです。
王子につきそっていた聖職者は手が震えて十字架を落とし、大臣は青ざめた顔で近衛隊長に耳打ちします。
「おい、これは悪魔の業ではないのか? 見ろ、あの民たちの顔を! 恐ろしい! 隊長、あの女は災禍の種になる。危険だ! 今すぐ斬れ!」
しかし、この国一番の剣士と言われた近衛隊長はシンデレラの動きを見て小さく呟きました。
「……いえ、私では斬れぬでしょう」
鳥が翼をやすませるような、たおやかな動きで踊りが終わったとき、群衆の歓声が爆発しました。拍手は雷のようです。王子も涙を流しながら何か言っています。しかしシンデレラの眼にそれらは映っていませんでした。
ひとり群衆の中、背を向けて去っていく老女。シンデレラは走ってそれを引き留めます。
「おや、もうあたしに用はないはずだよ」
「いいえ、あるわ」
「へえ、なんだい? あんたはもう全てを手に入れただろ」
「あなたはこう言ったわ。この国では私しかあの靴では踊れないだろうって。それにあのドレス……あなたはどこかよその国から来たのね?」
「さあね。昔のことは忘れたよ。あたしの役目はこの踊りを誰かのもとに運ぶことだけさね」
「言ったでしょう? 私はすべてが欲しいって。この踊り、これが全てじゃないわね? この先がある。いえ、そもそもこれは踊りじゃないんでしょう?」
「……いいのかい? この先を欲するなら、あんたは家も土地も何もかも手放すことになる。……あたしと長い長い旅をすることになるからね。ずうっと東の方に行くんだ。あんたの求めているものはそこにある」
「私が失ったもの、奪われたものの全て。それはね、私自身よ。そしてそれは舞踏会とは関係なかった。この踊りを踊っているとき、私はもうとっくに私自身を取り返してたわ。あの瞬間。私が踊りそのものになるとき。それに比べれば他の何も意味なんかないの。だから……連れてってよ、おばあさん」
「……じゃあ、今日からはおばあさんじゃないよ。老師って呼びな。この技の本当の意味を教えよう。そしてあたしの故郷に連れてってやろう。そこではあんたはまだひよっこさ。もっと凄い色んな遣い手がいるからね。≪灰かぶらず≫いや、無塵公主!」
「……はい、老師!」