武田惣角という人
合気道の源流である大東流合気柔術の事実上の始祖、武田惣角。その生涯は津本陽が小説化していたり、wikiなどで検索すると出てくる。史料を研究している人もいる。
にもかかわらず、あまりそれら研究者の語る惣角像があまり芯を食っていないな、と感じるのは、ひとえに大東流をやってない研究者が書いてることが多いのに由来するだろう。まあ私も正規に習ったわけではないのだが、ちょっとでもやれば分かるだろ、というレベルのことが分かっていないように見える。
たとえば惣角を狷介、求道者、偏屈というようなイメージで語ってしまっている人が多い。それは確かに一面ではあるのだが、この写真を見てほしい。あなたの周りにこの年齢になって人間持ち上げて写真撮ろうなんて人がいますか? そう、惣角は多分にお茶目でお調子者だったと私は見ている。
他にも惣角はおしゃれな帽子をかぶって写真を撮ったりしているが、この時代の人としてはかなり写真好きだったろう。珍しいもの、変わったものが好きで、何より人が好きだった。
なんでそんなことが言えるかというとこれも単純で、大東流は直接、皮膚の接触をすることが中心的技法で、しかも相手とつながる感覚が求められるからだ。人間が嫌いで合気という技術に辿り着くはずはない。
惣角は人とつながりたかった。
晩年に住まいを置いた村では自分の敷地内を横切っていく村人に怒り、飛び出してきて関節技を極めたりするので恐れられてたという話と、一方その村でも惣角に習った人は何人かいたという話がある。
これも奇人、偏屈というより、自分はここにいるよ、というアピールだろう。そこで恐れ入りました、凄い技だ、さすが会津の小天狗様だ、と言われたなら一気に気を良くして教えてくれただろう。
合気道の開祖、植芝盛平が新聞社で教え始めたとき、勝手にそんなことをしてけしからんと怒りに行った時も、謝られると簡単に許して、むしろ盛平に技を教えたという。無視されるのが嫌いなのだ。
また、手足や便意もままならない晩年まで旅回りの講習会形式を続けたのも人と会いたかったがゆえだろう。
本当に武人に徹するなら才能のある人間のみに全精力を注ぎこみ、佐川幸義や堀川幸道といった高弟のみに技を伝えるべきなのは明白だが、余命少なくなっても初心者に教導しているのは、教えることが好きだし寂しかったからだろう。
二千を超すという技数も、あんたの体格ならこうしたらいいだろう、この技は手でも出来るが肩でも出来る。傘でも出来るし、なんなら両手を縛られてても出来るぞ、と、どんどん教えているうちに興が乗ってインスピレーションが膨らんで出来ていったことだろう。
のちに言う武産合気(たけむすあいき)、「動けばそれが技になる」という境地はお調子乗り、もっと言えば若干のADHD的な資質から来ていると思われる。私も多分にそういう面があるので分かる。
吉丸慶雪氏が書き残している逸話で引き小手が得意な剣士に惣角が「ぬしゃ小野派一刀流じゃな、小野派一刀流は良いが引き小手は悪いからやめなんしょ」と頼まれてもいないのにダメ出しをして、そのあと左右に竹刀を持ち替えて体を開き、転換して両側から片手打ちで小手を取ってみせたという逸話もある。これは技術的に見ると惣角は二刀流的な剣遣いをしたということと、引き小手が打ってきたのを直線に引いて逆にカウンターを取るという前後の技なのに対し、左右に扇形に展開してくる相手には効かないよ、という立体的な剣術を想定していたということが分かって面白いのだが、人格的には他流の初対面の剣士にぐいぐい来る距離感の詰め方に惣角の人懐こさを感じる。ワシ、その技の破り方知ってる! と言いたくてしょうがなかったのだろう。
卒中で倒れたときに寝たまま佐川幸義に合気上げをかけてみせた、という話もあるが、これも真面目な研究者が死ぬ前に技を伝えたいと思ったのだろう、という悲壮な決意の話として解釈していた。
が、どちらかというとこれも遊び心、まだこんなことが出来るよ、出来るかな? と試してみたくなったのではないかと思っている。
介護職の経験から言っても、死ぬ間際にちょっとした茶目っ気を出す人は多いし、私もやりそうな事だからだ。
今はなき池袋将棋センターで、ほとんど生きてるのか死んでるのか分からない爺さんと将棋を指してこちらが詰まされたとき、その人がほんの微かにふっと笑うのを見たことがある。あれは「まだ負けないよ」という矜持を感じた。惣角の合気上げも似た逸話に感じる。
なんで史料を読み込んだ真面目な研究者がそうしたことがわからないかというと、非実践者かつ真面目な研究者だからで、それはどちらかというとASD寄りの資質で、ADHDの心情を読み取るのが難しいからだろう。
毎日、同じ拠点でマニュアル化したものをカリキュラムを組んで繰り返し同じことを教える管理職的なことは惣角にとっては苦痛だったはずだが、真面目な人は生涯、流浪するなんて可哀そう、きっとつらかったろうと真逆に思う。その結果、孤高の求道者というラベリングをしてしまう。
惣角はクリエイティブで、寂しがりで、お調子者で、人が好きで、教えたがりで、不器用な人だった。これは私だけでなく多かれ少なかれ武術家の晩年像のあるある、フォーマットだろう。