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五輪書 空の巻の解釈の違いについて

 前回の記事で五輪書・空の巻を読んで私なりの空の境地の解釈をしましたが、世間での空の境地はどのように捉えられているんだろうと思ったのでネットで検索し、YouTubeでも検索してみると、空の境地を虚空の空、空しいという意味の空だと捉えている人の多い事が解りました。
 簡単に言えば解っていない人が多いという事が解りました。そこで今回は何故同じ文章を読みながらも解釈は正反対的に違ってしまうのかについて、記事にしてみようと思います。

 空の巻については、宮本武蔵の心的境地を書き記したものです。現代に書かれた様な論文ではないため、読んだだけでは解らないので、各個人が都合よく勝手に解釈してしまうから、というのが答えになります。
 人間とはそういうものです。この人間観も私の「ある所」を識り「ない所」を識った空の境地から導きだした答えなのですが。
 もう少し言うと、その人の心の境地まで、でしか空の巻は読めないので、私が読むと晴れ渡る感謝の心で読めましたが、読んでも何も解らなかった人には読んだ後の空しい気持ちしか残らなかっただけの事なのです。
 つまりはその人の心の境地がむなしかっただけなのです。この事から、空の巻とは、読んだだけでその人の心の境地が解ると言っても良いのかもしれません。
 最後に「ない所」について少し触れます。空の巻、一巻だけの文字もちゃんと読んでいないのに宮本武蔵の「空」について知ったかぶりをする人が多過ぎます。
 すぐ後に「その空ではないよ」とちゃんと記載してあるのに「観見二つの眼」の前にそもそも目が見えているのかも怪しいものがあります。
 宮本武蔵についても何も考えていない空しい意見が非常に多く目につきますが、情報過多の現代では物事の真贋を見抜く力を養わなければ、いつまでも迷いの雲にとらわれまま、それこそ空しいだけの人生になってしまう事でしょう。
 偽物だらけの世の中ですが、一人でも多くの人が「実の心」で「実の道」を歩み、「実の空」へと至って欲しいものです。


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