格闘技とドーピング
格闘技に関しては以前から興味がありましたが、せっかくなので勝負論の学びの材料としてここ数年格闘技を見てきました。
そこで今の段階で格闘技に対する想いを記事にしてみようと思います。
どの様な成果が得られるかはやってみるまでは解りませんが、できるところまではやってみようと思います。
格闘技の仮説的一般論
まず格闘競技とは何かと考えた時、現象から観てみるとボクシングやキックボクシング、総合格闘技などの試合として我々は観る事ができます。
ではそれらの現象を成り立たせているのは何かと考えた所、それは人間とルールであると私は考えています。
例えばボクシングとキックボクシングの代表的な違いとして、一つは格闘技術、もう一つはルールがありますが、その格闘技術はルールに規定されたものと考えられます。
そしてその格闘技術を担うのは人間であり、人間同士がルールに基づいて競い合うのが格闘競技と言えるのではないかと思います。
とりあえず今はこれを仮説的一般論として、無限の現象について考えてみる事にします。
ドーピングとはどういう事か
さっそく試合について考えてみようと思ったのですが、ちょうど今話題になっているドーピングについて考えてみましょう。
今世間では平本選手のドーピング疑惑について盛り上がっていますが、これを私はどう考えているのかと言えば、ドーピングというのはルール違反であります。
ルールというのはその競技をその競技として成り立たせている構造ではないかと考えていますので、ドーピングしてしまうとその構造が崩れた事になります。
つまりあの試合は総合格闘技の試合として成立しているのか怪しくなり、では何だったのかと言われるともう解らなくなりますね。茶番を観せられたという事になるのでしょうか?
他にも構造が崩れる例としては反則行為が挙げられます。バッティングや足を踏む、体重超過などがありますね。あとは審判や審査員の買収もあります。
それらに関しては話題になった時にでも取り上げてみようかと思いますが、ドーピングについてもう少しだけ語るならば、何故こんな簡単にドーピングを許してしまうのかと言うと、ハッキリ言って団体が容認しているようなところもあると思います。
社会から見た格闘技界の問題
何故ならば今の日本は資本主義であり、お金になれば何をしようが問題ないという社会であるので、ドーピングをしてスター選手が生まれるならどんどんやって欲しいというのが本音ではないでしょうか?
こういうところが透けて見えるので、私はライジンやK-1を心から好きになれないんです。
他にも不要な演出が多すぎるというのも好きになれない理由です。例えば選手が会見やSNSで非常識な言動で注目を集める行為などです。
これらは構造から言えば人間の問題でしょうか?
感性的ではありますが、不純物が多過ぎるというのが素直な感想です。私は純粋な勝負が観たいのです。
その点、ボクシングはまだマシだなという印象を受けますね。
どの分野も同じ問題を孕んでいる
平本選手がドーピングをしていたのかについては、実はそれ程興味はありません。ただの材料ぐらいにしか考えていませんが、問題はドーピングを許す団体にあると思っていますので、ただのファンとしてはクリーンな試合を望むだけですが、上記の通り今の日本、つまり拝金主義の資本主義社会ではそれは無理というものなので、大金が動くようなところ以外にこそ本物がいるので、本物を望むなら自らの主体性で探すしかないという事になりますね。
当然に社会構造に問題があるので、どんな分野でも同じです。個人的には最も酷いのは音楽業界だと思ってます。日本の恥とまで言えますし、私も恥ずかしいと思っています。
ドーピング問題を記事にするつもりが社会構造にまで話が及んでしまいましたが、次回から上記の格闘競技の仮説的一般論の線で、格闘技における現象について記事にする予定です。
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