きまぐれに咲く花の色が曖昧で、今日も「きまぐれユモレスク」を聴く
皆さんこんにちは。アイドルマスターミリオンライブ、箱崎星梨花を応援する者です。いやー、皆さんは聴かれましたか?稀代の名曲「きまぐれユモレスク」を…。
このnoteではきまぐれユモレスクを聴いての感想をただつらつらと書いていきます。はっきり言って今私の脳は数多の感情が飛び交っていて全く収拾がついていません。まとまりのある文章になるかは分かりませんが、できるだけ頑張ります。
※私は初年度から全部のコミュ・ドラマCDを完璧に見てて…みたいな感じのPではないため、普通に誤ったことを書いているかもしれません。ご容赦ください。
きまぐれユモレスクは本当に雄大な楽曲で、あらゆる観点からあらゆる解釈ができてしまうのですが、文章としてまとまりを出すために今回は軸を1つに絞って考えたいと思います。それは・・・
きまぐれユモレスクはキャラソンか否か
(先に断っておくと、「キャラソンか否か」なんてこの大名曲の前では至極些末なことだと私は思っています。ただ、私が一番強く感じたことをお伝えするのに、切り口として面白いテーマかなと思った次第です。)
キャラソンではないだろ、というのが率直な感想、マジョリティだと思います。なのにこんなことを論点にするということは、違う結論を書こうとしているわけですが…。
まず「キャラソンとは何か」。私は「歌手自身のキャラクター性・ストーリー性を色濃く反映した曲」だと考えています。これはアニメ・ゲーム界にのみ存在する概念ではなく、我々の世界でも例えば「マツケンサンバⅡ/松平健」や「センチメンタル・ジャーニー/松本伊代」などは広義のキャラソンと捉えています。「私がオバさんになっても/森高千里」とかも、森高千里が永遠に若すぎて「いつになったらオバさんになるんだよ!」って言われ始めた辺りからキャラソンめいてきた面白い曲だなって思っています。つまり、アイマスを1つのゲーム作品としてメタ的に捉えなくても、アイマスの作中世界(=アイドルにとっては現実世界)でアイドルが自身のキャラソンを歌うという物語は成立するのです。
次に、アイマス楽曲全体がキャラソンか否かについては本当に諸説あると思っていて、これだけで何文字書けてしまうのかというくらい深いテーマだと思っていますが、私の感覚では、ミリオンライブは「曲によるが、765ASのこれまでの曲と比較すると平均してややキャラソン寄り」という印象があります。これは、コンテンツ全体のコンセプトやソロ曲を出す頻度、アイドルの総数、当時の音楽的トレンドなど様々な要素を孕んでおり、「どっちが良い」とかそういう物差しで考えるものではありません。私が重要だと思っているのは「アイマス楽曲がキャラソンであるか否かは、曲ごとに解釈の余地がある」ということです。この前提が無いと、以降の解釈が無意味になってしまうので、話が逸れること承知で書かせていただきました。
さて、そろそろ本題です。ある楽曲がキャラソンであるかどうかを考える際には、曲が語る(広義の)ストーリーと歌手自身のシンクロ度を検討するというアプローチになるのかなと、素人ながら考えています。
この考え方で行くと、曲中の人物と星梨花には明確な相違点がかなり多いです。
・星梨花は周囲の人に愛され/注目されて育ってきたため、「私を見て」といった承認欲求的感情を出すイメージを持ちにくい
・星梨花は素直な性格のため、好きな相手にきまぐれな態度を取るイメージを持ちにくい
・星梨花は自分で自分を「悪い子」とは思っていないが、「良い子」だと自称するとも考えにくい
・「悪いこともしたくなる」「あなたを困らせたい」など、悪意を吐露する場面を想像しにくい
このことから私は当初、「きまぐれユモレスクは星梨花がまだ知らない感情を持っている子について歌った曲で、そこをどう表現するかという挑戦をしている」と解釈していました。すなわち、少なくとも現時点ではキャラソンではないと。というか、未だにそう思っています。5割くらい。さらに1歩踏み込んで、「5年後とか10年後にキャラソンになっているかもしれない曲」と解釈することもできると思っています。
本当に私のイメージですが、星梨花って実際好きな子が出来たら案外こういう態度取りそうだなって気配はあるんですよね。星梨花って無垢ではあるけど、根っからの善性ではないというか。ハロウィンでイタズラするとか、楽しい系のドッキリの仕掛け人とかは結構好きなタイプだと思うんですよ。それの延長線上で、同世代で両想いを感じる子がいたら、結構魔性出してきそうな気がしませんか?少女捕まえて何を語ってるんだって話なのでこれ以上はやめます。
ですがある時、これらの解釈は全てある1つの前提から導かれたイメージであることに気づきました。その前提が実は崩れているとしたとき、きまぐれユモレスクが私に見せる景色は180度変わります。その前提とは、
「“星梨花はまだ、誰かを恋愛対象として好きになったことがない”のか」
ということ。こう思うこと自体はかなり一般的だと思っていて、例えばミリラジのパーソナリティであるぴょんころもちのお三方は、そのリアクションから「星梨花に恋愛はまだ早い!」と思っているはずです。ですが、、、この前提、本当でしょうか?
確かに私たちは星梨花が誰かを好きになっている様子を見たことはありません。ですが、それって「Pは誰かを好きになる星梨花を観測していない」だけなのです。それは「今現在、星梨花には好きな人がいない」こととは決してイコールではありません。何故なら、Pと星梨花は仕事場でしか接していない“だけの”関係であり、星梨花に秘密があったとしても何ら不思議ではないからです(ここで星梨花がFleurangesを経験していることがボディブローのように効いてきます)。
曲中の人物のようになる星梨花を私がイメージできなかったのは、「誰かを好きになる星梨花を、Pは観測していない」からで、そのとき星梨花がどんな表情を見せるのかを誰も知らないからなのです…。
もちろん、コンテンツの中で語られていないキャラクターの経験を想像することにいかほどの意味があるのかについては、理解しているつもりです。そんなもの仮定しだしたら何でもアリになってしまいます。でも、キャラクターに限らず我々が接する全ての人間ってそういうものだと思うのです。誰もが誰しもの一面しか見ることはできなくて、「本当はどんな人か」なんて誰にも分からない。そして、自分で言うのもなんですが、星梨花Pにとって、ここまでの想像がそこまで荒唐無稽なものではないことには、少し自信があります。それは、「誰かを好きになってもおかしくないくらい沢山の経験をアイドル箱崎星梨花はしてきたから」「その経験は紛れもなく、P自身が導き、見守ってきたものだから」です。
今の箱崎星梨花は、「トキメキの音符になって」で“ドキドキはどうしてなんでしょう?”と歌っていた頃とは比較にならないほど大人になったのだと思います。それを踏まえて、もう一度自問自答したいのです。
「きまぐれユモレスクはキャラソンか否か」
考えれば考えるほど、私は【分からない】と結論づけざるを得なくなってしまいました。歌われている子は星梨花ではないなんて、Pに分かるはずがない。「星梨花に恋愛はまだ早い!」と思うのは、ある意味私のエゴで、私の持つ星梨花像を勝手に押し付けているだけかもしれない。
きまぐれユモレスクを初めて聴いたとき、とんでもなく最高の曲が来たと胸が高鳴ったと同時に、奥に棘がチクリと刺さったような寂しさを少しだけ感じました。それは「星梨花が成長して遠くに行ってしまった」とかそういう類の喪失感だと最初は思っていたのですが、「そもそもお前は星梨花の何を知っている?」と突きつけられたことに対する寂しさだったのかもと、今は思っています。
ですが、この寂しさが、私にとってはたまらなく嬉しかったです。この世の多くの事象が「知れば知るほど分からなくなっていく」ように、私はまだまだ箱崎星梨花を知ることができる。星梨花が外の世界をもっと知りたいと願うように、私も星梨花をもっと知りたいと、9周年の今になって一番強く願っている。初めて星梨花を知ったとき、星梨花の担当になったときよりも、9周年の今が一番、星梨花に“奥行き”を感じられる。これが幸せじゃないなら何なのかと、心から思います。
しかもこの、「知れば知るほど分からなくなっていく」という雲をつかむような感覚と、「きまぐれユモレスク」という曲名が想起させるイメージが調和していることにも、小憎らしいほどの美しさを感じています。そもそも私は、星梨花のソロ曲のタイトルに「きまぐれ」という言葉が用いられたこと自体に深く感動してしまい、ミリラジで曲名がコールされた瞬間から、「とんでもない曲が来る…!」と身構えていました。
きまぐれになれるということ
突然ですが、あなたが小学生の頃を思い出してみてください。日曜日、何して過ごしていましたか?
親とお出かけ、友達と遊ぶ、お勉強、習い事、家でテレビやゲーム・・・色々あると思いますけど、それらを「きまぐれ」に選んだ記憶ってありますか?結構な人が「ありそうで無かった」のではないでしょうか。
幼い頃って自分の行動パターンが案外決まっていて、大体周囲の人が予定を決めているか、何も予定が無い日だって大人みたいに自由にお金が使えたり遊びの種類を知っていたりってわけでもないですから、だいたいやることなんて2つか3つくらいなことが多いと思います。つまり私が言いたいのは、「自分の中にある選択肢が少ない人間は、“きまぐれ”になれない」のではないか、ということ。めちゃくちゃ身近な例で行くと、ミリシタのランダム曲選択が実装されたのってだいぶ後のことでしたよね。あの機能が初期実装曲の状態で実装されていても、多分誰も使わなかったのではないかと思います。
「きまぐれユモレスク」がキャラソンか否かによらず、ひとつの事実として「箱崎星梨花はきまぐれユモレスクを完璧に歌いこなしている」というのは言えると思います。少なくとも星梨花は「気になる誰かにきまぐれな態度を取る微妙な感情」を理解し、表現している。ここでキーになるのはアウトロで全ミリPの脳に衝撃をもたらした「すき」「きらい」の表現です。
逆説的に言えば、星梨花は「きらい」の感情に幅は出せなかったが、「きまぐれ」の感情には寄り添うことが出来た、ということではないでしょうか。実体験として持っているかまでは分かりませんが、星梨花は既に「きまぐれ」になれるくらいの豊富な選択肢を宿しているのだと思います。あの星梨花が、です。
箱崎星梨花は自他ともに認める「無知な」アイドルです。そんな彼女の、もっと知りたい!という好奇心を叶えたい。私が知る全てを、そして私も知らない全てを彼女に経験してほしい。その先にある強く心が揺さぶられる「何か」を見つけてほしい(それが「アイドルでは無かった」としても)。という想いが、私が箱崎星梨花と向き合う原動力でした。そんな私にとって「きまぐれユモレスク」は、星梨花が「きまぐれ」に寄り添って歌うことができるくらい、長く豊かな道のりを歩いてきたことの証のように思えたのです。加齢という分かりやすい経年変化の無いミリオンライブというコンテンツで、こんな想いを抱けるとは本当に思っていませんでした。嬉しい。最高に嬉しい。
とまあ、ここまではかなりアイマス世界に頭頂まで浸かった上での感想でしたが(まだ書く気か俺は・・・?)、結構メタ視点で楽曲を聴いたりライブを観たりするのも好きな性分でして、その視点でもやっぱり語りたいテーマがあります。
アイマス世界のP/現実世界のPはどういう発想でこの曲を発注したのか?
ミリシタのメインコミュの大半は、Pが新たに生まれた楽曲をソロとしてアイドルに歌わせる構成となっており、明確に描写されたりされなかったりはしますが、作中世界においてはPが曲のイメージなどを作中世界の作家に示して発注をかけているようです。ミリシタがずっと続いていけば、いずれは「きまぐれユモレスク」のコミュもできるわけで、そういうやり取りが見られるようになるわけですが、「きまぐれユモレスクを発注した作中世界のP」、冷静に考えなくてもヤバすぎませんか?
現実世界の星梨花ファンは我々みたいなオタクがメイン層ですけど、作中世界の星梨花ファンって、ピコプラとかあったし割と小中学生多いと思うんですよね。当時のまいんちゃんとか、天才てれびくんに出てた子たちとかのイメージでしょうか。その層にこの曲叩きこむって、「やってる」としか言いようがないでしょ。壊れちゃうって。ファンが。
そして大人のファンからしても、あまりに唐突なイメージチェンジだと思うんですよね。我々はこの曲を聴いても、これまで通り星梨花と接する機会があるから「チャレンジングだなぁ~」で済みます(済んでないからこんな長文書いていますが)けど、ステージ上の星梨花しか知らないファンは「えっ…えっ?」ってなるでしょ。みんな壊れちゃう。
私はこれまで、P目線の星梨花像と作中世界の星梨花像にはほとんど乖離が無いと考えていました。ですがこの曲を機に、混沌としてくるかもしれない気配を感じています。ミリPよ、星梨花をどうプロデュースしていくつもりなんだ。気になる・・・。気になりすぎる・・・。
そして、現実世界でこの曲を発注した現実世界のP(ここではわかちこPのような存在を指します)は、この曲が星梨花にとってどんな曲になると考えて発注したのか。流石に前述した「成長の実感」や「きまぐれの妙」は私が勝手に感じていることだと思っていて、もっと別の意図があると思うんですよね。シンプルに考えたら、4曲目だし今までとは異なる攻めたアプローチで行こうってなったんだと思いますが、普通に組み立てていった結果でこういう攻め方になる気が全くしないんですよね…。マジで、コンセプトどこから決めて、どれくらいの彩度で作家さんに投げたんだ?P、作家、もちょ、どの行程で一番の「ヤバ」が発生したんだ…?
正直私は、結構みんな無邪気に「かわいいよね~^^」でやった可能性もそこそこあると考えていますが、でもやっぱり、制作の皆さんが「箱崎星梨花」を突き詰めてプロデュースしてくださったから、こんなに素晴らしい曲が生まれたんだなと思っています。最高です。ありがとうございます。
あとがき
今画面右上で6000文字越えたよって言われて震えています。
(敢えて書きますが)“実在しない”アイドルの人生や心情を考察するのって、傍から見るとこの上なく“無意味”なことですよね。
私自身、今は一生アイマス好きだろうと思いつつも、3年もすれば飽きているかもしれないし、30年後もアイマスのことを考えている可能性は相当低いです。
でも、30年後にふと「きまぐれユモレスク」を聴いたら、多分小学校以来会っていない友達や先生の顔を思い出すように、星梨花の顔を思い出して「今も元気にステージに立っているのかな」とか考えてしまう気がします。そしてそのとき私の心は、きっと穏やかで温かく、ポケットに突っ込んでおくのにちょうど良いくらいの手触りになっているはずです。
ま、私がオジさんになったら、星梨花もオバさんよ~♪って感じなので、流石にステージには立ってないですかね。でも星梨花なら立ってるかも?
なんか星梨花って吉永小百合さんみたいにずっとスターとして生きるか、人気絶頂の17歳そこそこくらいでスパっとアイドル辞めて急に研究者とか目指し始めるか、両極端になりそうなイメージなんですよね。皆さんどう思いますか?
・・・みたいなこと考えるのって、楽しいじゃないですか。誰かを想う、何かを考えることの意味って、“実在”とかそういう概念とは遠いところにあるんです。そんなことはどうでも良くて、ミリオンライブを応援するのは楽しくて、星梨花をプロデュース(って何を指すのか未だによく分からないながらも)したいから星梨花のことを色々考えてしまい、結果私という人間が少しずつ変化していき、それもまた1つの“意味”となるのです。私の場合は、ですけどね。
ほんとのあとがき
流石にエモに寄りすぎた気がする。現実の私はこんなロマンチストじゃないです。ですが、こういう話を書くのにわざわざ一歩引いた目線で構えてもおもんないかな~って思ったので、こんな感じになっちゃいました。
きまぐれユモレスク。マジで最高傑作出たなって思っています。ツイッターにも似たようなことを書きましたが、将来箱崎星梨花が情熱大陸とかで特集されたときに「この曲が彼女の転機となった・・・」って紹介される感じの代表曲になると思います。
配信バラ売りも解禁されましたので、皆さん聴いてくださいね。フル、マジで終わらせにきてます。よろしくお願いします。