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ペースメーカーの孤独
海沿いのスタート地点には、潮風と共に独特の緊張感が漂っていた。
選手たちがウォーミングアップをする中、俺は静かに自分の役目を確認していた。
ペースメーカーとしての仕事は、決められたペースで走り続け、トップ選手たちを支えること。それ以上でも、それ以下でもない。
「主役にはなれないんだよな」
俺は苦笑しながら、シューズの紐を結び直した。
かつての俺は、オリンピックを狙える選手だった。
あいつ――翔太――と共に、未来を夢見て汗を流していた日々。
だが、あの日の故障で全てが変わった。俺は表舞台から遠ざかり、今は裏方として走るだけの日々。
俺はふと思い出す。
昔読んだシリトーの『長距離走者の孤独』の主人公は、反骨精神を抱えながら孤独の中を走り続けた。
だが、俺は違う。俺の孤独は、過去の自分への悔しさと、未来への希望が入り混じったものだ。
孤独を埋めるために走るんじゃない。
孤独を抱えたまま、それでも前に進むために走るんだ。
翔太は変わらずトップ選手として君臨している。
今日も彼は優勝候補だ。
俺の役目は、そんな彼を支えること。
だが、心の奥底では、まだ諦めきれない自分がいる。
「俺だって、まだ走れるんだ」
その思いを胸に、明日のレースに備えた。
スタートの号砲が鳴り響いた。
選手たちが一斉に飛び出す中、俺はペースメーカーとして集団の先頭に立った。
風を切る感覚。足音がリズムを刻む音。
これが俺の居場所だと思える瞬間だった。
海沿いのコースは風が強い。だが、それは慣れたものだ。
俺はペースを乱さず、淡々と役目を果たしていく。後ろには翔太を含むトップ集団が続いているのがわかる。
「いいペースだぞ!」
翔太の声が背中越しに聞こえた。
翔太の存在感は相変わらずだ。俺が夢を諦めた後も、彼は努力を続け、トップ選手であり続けた。
その姿を見ていると、自分が情けなくなる時もある。だが、今はそんな感情を振り払うように、ただ前を見て走り続けた。
30キロ地点。ランナーにとって「壁」と呼ばれる距離だ。俺の体も悲鳴を上げ始めていた。だが、ここで役目を果たせなければ、ペースメーカー失格だ。
選手としては失格したがこのペースメーカーとしては絶対に失敗してはならない。
「まだいける……俺はまだ走れる!」
自分を奮い立たせ、俺はペースを維持した。
35キロ地点を過ぎた頃、俺は気づいた。
トップ集団の選手たちが次々と脱落していく中、翔太と俺の二人だけが残っていることを。
本来なら、この辺りで俺は役目を終え、レースから外れるべきだった。
だが、俺の足は止まらなかった。いや、止めたくなかった。
「おい、もういいんだぞ!」
大会運営者が声をかけてくる。だが、俺は無視した。
翔太が隣に並ぶ。
彼の顔を見ると、苦しそうだが、それでも笑みを浮かべているように見えた。
途切れる声で「お前、まだこんなに走れるんだな」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。俺はまだ走れる。
翔太と肩を並べて走れる。それだけでも十分だと思っていた。
気づけば俺は翔太とトップ争いを繰り広げていた。
40キロを超え、ゴールが近づいてくる。
観客の驚くような歓声が大きくなる中、俺は全力で走った。
翔太も同じだった。
昔の俺達のようにお互いに一歩も譲らないデッドヒートだった。
俺が翔太の一歩先にゴールラインを越えた瞬間、何も考えられなかった。
目の前が白くなるほどの疲労。
だが、その中で聞こえてくる観客の歓声と拍手。
そして、翔太が俺の肩を叩きながら笑っていた。
「お前、最高だよ。やっぱり諦めてなかったんだな」
俺は息を整えながら、翔太の言葉に応えた。
「……諦めたつもりだった。でも、走ってたら思い出したんだ。俺は、走るのが好きということとお前が最高のライバルってことを」
観客の歓声がさらに大きくなる。俺は初めて気づいた。ペースメーカーとしてではなく、一人のランナーとして走り切ったことの意味を。
レースが終わり、俺は静かに空を見上げた。
走ることを諦めていた俺が、再びゴールを目指して走れた。
それは、翔太や観客、そして何より自分自身の力だった。
「また走ろう。今度は、ペースメーカーじゃなくて、俺自身のために」
新たな決意が胸に芽生えた。
俺はもう一度走るつもりだ。
誰かのためではなく、自分のために。