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『言語が消滅する前に』

直接現実に関わるのではなくて、あいだに挟まる衝立のようなものとして言語がある。つまり言語というのは、直接的満足の延期であり、もっと簡単に言うと我慢なんですよ。

『言語が消滅する前に』p152

自分のための読書記録として、月に1冊くらいのペースで、面白かった本について記してみたい。
どれだけ続くかはわからないが、物は試しに、最近読んだ本について見ていこう。

1.弱体化する物質としての言語

『言語が消滅する前に』は、哲学者である國分功一郎と千葉雅也の対談集だ。5本収められている対談はいずれも、行われた時期も、扱われたテーマも異なるものの、そこでは一貫してある要素についてが議論されていた。

それが、言語である。

中動態、勉強、権威主義、政治など様々なテーマを展開し、その論点は多岐に及びながら、その背景では一貫して言語についてが語られている。

もっと言えばそれは、言語が消滅する危機についてだ。


二〇世紀の哲学において、言語はとりわけ重要な力を持ち、「人間は言葉によって規定された存在である」というのは哲学的な前提とされていた。

存在そのものを言語によって捉えようと試みたハイデガーや、後期に言語ゲーム論を展開したヴィトゲンシュタインがわかりやすい例だろう。

しかし二〇一六年、アガンベンは『身体の使用』において、人間はもはや言語に規定された存在でなくなりつつあるのではないか、と指摘している。


また他方で、数十年前は詩が今よりもずっと広く普及していた。

詩集が発売すると皆飛びつき、雑誌には詩の批評が掲載され、詩人は高い文化地位を得ていたのだ。詩は言葉を道具でなく物質として扱い言葉をそれ自体としていじくり回す。自己目的的な性質を持ち、コミュニケーションを目的としない。

しかしそうした詩の在り方は現在では見る影を潜め、もはや自己目的的に詩を書くことはほとんど不可能に近くなっている、と千葉は指摘する。

こうして、物質としての言語は弱体化し、言葉は直接的な道具としてのみ捉えられるようになってきているのだ。


2.情動的なコミュニケーションの時代

言葉はコミュニケーションのためだけに使われ、道具として扱われるようになりつつある。しかしインターネットが普及し、SNSが台頭した現代では、その言葉さえも不要になってきているのだ。

それは、どういうことだろうか。

「エモティコン」という言葉がある。これは「エモーショナル」と「アイコン」を組み合わせた言葉で、つまり記号を組み合わせて表情や仕草を現した顔文字のことだ。 

こういうやつね → ( *´艸`)  :) 

さらに現代人の連絡手段として欠かせないLINEでは、スタンプをぽんっとタップするだけで大抵の意思表示が出来てしまう。

現代人は日常の会話がこうしたもので事足りてしまうことに気付き、言語のみに依拠しない情動的なコミュニケーションへと向かっている。

ここでは、解釈が必要となる言語はもはや邪魔なのだ。

こうしたコミュニケーションは、無意識やメタファーを弱体化させる代わりに、即座に満足と結びつく直接性を持っている。

そもそも言語がしち面倒くさい存在であるのは、それが直接的な表現ではなくて、常に間接的で迂遠なものであるからですよね。

『言語が消滅する前に』p152


3.直接的満足の延期

ここで、冒頭で引用した一節を再び見てみたい。

直接現実に関わるのではなくて、あいだに挟まる衝立のようなものとして言語がある。つまり言語というのは、直接的満足の延期であり、もっと簡単に言うと我慢なんですよ。

『言語が消滅する前に』p152

千葉はここで、言語とは直接的満足の延期であり我慢であると述べている。

一方で前章で見た、エモティコンを用いて行われるようなコミュニケーションは直接的なものであり、我慢が必要ない。

さらにSNSの変遷を見てみると、ツイッターやブログなどの文字的コンテンツから、インスタグラムの画像的コンテンツに流れ、そしてTikTokというよりわかりやすく知覚される、情動的なコンテンツが優位になっている。

ここでは受け手の「解釈」はほとんど必要なく、言語の多義性やメタファーは弱体化していく。それと引き換えに、僕たちは直接的な満足を得る。我慢をしなくて良くなる。

さて、この我慢がなくなると、どんなことが起きるだろうか。逆に言えば、我慢をすることによって、何が生まれるだろうか。


ほとんどアマチュアのような身分とは言え、文章でお金を貰うことがある身として、「言語は直接的満足の延期であり、我慢である」という感覚には心当たりがある。

何かを言葉で表現したい時に、いま目の前の画面に打ち込んだ言葉では何か違う気がして、何か言い足りていない気がして、また別の言葉を探す。言葉を探す時はいつも、水の中に潜っているような感覚で、「我慢」をしている。

言葉というのは、そうした我慢や不満の中で繁殖してきた。それが今、失われつつある。


4.考えるということ

二〇世紀の哲学者、ヴィトゲンシュタインは著作『論理哲学論考』のなかで、かの有名な命題を記している。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。

『論理哲学論考』

この一文の意味については、浅学ゆえに正確なところはわかりかねるが、ここでまたヴィトゲンシュタインの別の言葉を参照したい。

私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。

『論理哲学論考』

ここでヴィトゲンシュタインは、言語によってこそ自らが捉えられる世界が規定されるのだと主張している。つまり言語では表現しえない形而上のもの(語りえぬもの)については理解しきれず、故に沈黙すべきだというのだ。

これは即ち、言語で表現できる限界が、思考の限界であるということだ。


モノを考えるということは、それを言語化するということである。そんな感覚を抱いている人は、少なくはないのではないだろうか。まだ言語化できていない予兆のようなものを、我慢をしながら言葉を探し当てることで、ようやく思考が実を結ぶ。

水の中に潜り、我慢を続け、言語が繁殖し、その中から手繰り寄せることで、ようやくひとつの解に行きつく。

言葉を手繰り寄せるというそのプロセスは、我慢することに他ならず、それはやはり、直接的満足の延期であると言えるだろう。


情動的な、道具としての言葉は、もしかするとそのようなプロセスの射程をぐっと狭めてしまうことに繋がるかもしれない。

今の僕の個人的な関心から、言語の弱体化を、考えることと結びつけてはみたが、それ以外にも考慮するべきことは少なくないかもしれない。

そうした言語の消滅に少しでも抗うべく、ここでこうして、ただ消費されるだけではない形で、文字を綴る。いま僕が抱いている想いを、言語として残す。




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