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思考実験:蜘蛛と皿



イントロダクション


昨日、夜風に当たりに外に出たのです、すっかり風は秋の涼しさで遠くの星が良く見えました。

私は軒下でほんの少しばかり夜空を見て家に入る所だったのですが、蜘蛛の糸が腕についた感覚が有りました。


もう片方の手で蜘蛛の糸を腕からぬぐい、家に入ったのですが少し違和感があり「蜘蛛本体が体についていないよね?」とはうっすらと思いましたが、立ち止まって確認するほどではなかったのです。


家に入り私は夕食の皿をお盆ごと流し台へ運ぼうとしました、途中、違和感を感じ腕を見ると外にいたはずの蜘蛛が這いあがってきました。


ビックリした私は蜘蛛を振り払おうと思いその様な動作をし、グラついたお盆からお皿が落ち一枚割ってしまいました。


不運はさけられるのか


この一連の出来事は私の頭の中に何か考え深い揺らぎを残して終わりました。

1️⃣ 外での違和感を感じた際に何か良からぬ事が起きるのを予測できたか?
2️⃣ 私はお皿を割ることを避けられたのか?
3️⃣ 運命とは決まっているのか?


まず、1番の「違和感を感じた」という部分が焦点として自分の頭に浮かびました、確かにほんの僅かに意識したので、その様な小さな違和感に対処する意識を習慣化できていたら蜘蛛の存在に気づき屋外の時点で追い払えたかも知れません。

追い払えたのならお皿は割れることはなかったはずです。


2番目について、最初に違和感(多分蜘蛛の動体性)を感じましたが、そこからお皿が割れるという結実までは全く想像ができていませんでした。


これを事前に予測することは不可能ですが、事後で思うのはあの際対処していればお皿は割れなかったのにと考えます。

しかしながら事前に蜘蛛の存在に気づきお皿が割れなかった世界線があった場合、それは何もアクシデントが無い日常なわけですから、このノートを書くこともなく何も気づかない時間になったはずです。

ちなみにですがお皿は全く高価な物や思い入れのある器ではありません。

ただ安価なお皿であろうと割ってしまったら「ちきしょう!」と思うし自分の所作のタイミングの悪さに大なり小なりうんざりする物です。


3番についてエキセントリックな思考実験ですが、お皿が割れることはあらかじめ決まっていたと試案的に考えます。

たまたま蜘蛛がきっかになっただけで、蜘蛛を避けれたとしても普通に手を滑らせて割っていたかも知れません。

もしこの領域の思考で完結するならば、考えるだけ無駄だと言うことです、あらかじめ決まって必ず起きる事に対して思案を膨らませても意味がないからです。


確定されているが確定されていない世界


3番について更に思考していくと、どの時点で確定したのか?と言う思いが巡ります。

もし生まれた時であれば、我々の思考、思考による行動はすべてあらかじめ予定されている事になります。

その正誤を確認するすべはありません、しかしそうであるならば何故人はこんなにも色々な感情を持ち、思いもよらないハプニングが起こり、思い返し成長していくのでしょう。

では5年前から決まっていた?、昨日決まった?。

ここでまた改めて思うのが、些細な違和感を大切にする心構えが身についていたらこの事象は避けられていたかも知れないと言う考えです。

安易な過程的な結論ですが、違和感というものは大切です、違和感から行動に移し避けたけど認知していない禍も人生の中で何回もあったかも知れません。

またコスモロジカルに考えると、あらかじめ予定されているがその大小は自分の心構え次第で変わると言う考え方もあります。


そして必ず未来へつながる


この事は妄想〜思考実験の範疇を出ることはありませんが、今回の事象の気づきによって未来のより大きな禍を避けるきっかけになったともし仮定したら、今回の蜘蛛は私にその予兆を知らせてくれた存在、ユニークに表現するならば神の使いと言う事になります。

今回の事で違和感の大切さを覚えそれが将来の災いを避けるきっかけになる


もしそうだとして、未来の大きな禍は私にいつ起こるのでしょうか?、明日、5年後、死ぬ直前?


もし死ぬ直前ならば、人生とは常に断定できない状況であると表現する以外に他はありません。


よって、常に仮定、仮説的な善悪の中で我々は生きているのです。

およそ得をした、およそ損をした、およそ日は悪い日だ、およそ今日は良い日だ、、、。



結び

1から始めて前節が10だとすると、今度は10から考える内容になりますが人は常に判断をする癖があります。


物事の判断とは評価する事です、ただここまでの思考実験で分かったように人生で起こる出来事はおよそほとんど過渡です。

過渡であり相対的でありその時々の評価で変化していくものなのです。

この事柄はいかに我々が結論を出す癖がついている事と、それを一旦やめてみようと思える思考に繋がります。

物事の評価はその時々ではする必要がありますが、「今はおそよこうである」と余白を残して考える事でそれ以外の可能性を肯定する事につながるとこの内容から私は感じました。

その考え方は、確定されているが確定されていない世界に繋がります。

実際に事実そうであるし、自身の脳がそう思う〜あえてそう思い込むことで、可能性の世界は広がると思えてきます。


ここまでの内容を私は自身に今実際に起こっている困難を重ね合わせます、そう、およそ困難な状況が起きてしまったが、それは現在の過程であると。

将来、現在の困難を幸運だったと評価できる様に未来に向けて過ごしていきたいと。


そんな事を今回の出来事で思いました。


ここまでのご拝読ありがとうございました🐊。

100日ノート書いてます、こちらもよろしくお願いします。


違和感大事。








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