『名無しの黒い犬、ノラクロのこと』
『名無しの黒い犬、ノラクロのこと』
これは、ある災害避難所での話である。
白い犬を連れて散歩していると、どこからともなく現れる犬がいた。首輪も着けていないところを見ると、今のこの犬に、飼い主はないようだ。
黒毛にグレーのブチ、少し困ったような表情をしたその犬は、人に引き綱をひかれて歩く白い犬のあとを、トコトコと付いてきた。
どこに寝床を作っているのかもわからないが、その日以来、白い犬と散歩していると、決まってこの犬は現れた。
しばらくすると、白い犬に近づいては、お互いにじゃれて遊ぶようにもなった。しかし、人間が近づこうとすると、その犬は必ず距離を保って、決して触れさせようとはしない。
白い犬の散歩が終わると、その犬はこちらの様子を伺うようにチラチラと振り返りながら、背を向けてトコトコまたどこかへと去っていくのだ。
いつからかこの犬は、ノラクロという愛称で呼ばれるようになった。
この場所が災害避難所として運営されるようになってから数か月が経つ。もともとは町が運営する運動公園内の敷地内にある体育館だったが、大地震による被災を受け、避難所として運用された。被災当初、避難所ではペットとの同伴避難が許され、ペットの有無を問わず避難所生活を続けていたが、時を追うごとに徐々にそこを出るペット連れ世帯は増えていった。やはり、ペットを連れていることで、周囲に気を遣う。同じ被災者とはいえ、一つ屋根の下の、段ボールのつい立てでのみプライベートな空間を保っているだけの共同生活。
うちの犬は迷惑になっていないだろうか。うちの猫の匂いは大丈夫だろうか。
周囲の方々に不快な思いをさせてはいまいか。ペット連れの被災者たちの多くは、そうした、どこか『申し訳ない』とか『なにか後ろめたい』といったような感情を持ちながら、多くの人々との共同生活に、徐々に心身の疲労は蓄積していった。かといって、帰るべき我が家は損壊していて、生活できるような状態ではない。ペット連れの被災者は、やむなく自家用車を寝床にしながら、避難所の敷地内で生活する選択をする。避難所で生活するよりは、プライベートは保たれるし、避難所で配給される支援物資を受け取ることもできる。
しかしその代わり、こうした狭い空間では人間の健康面でリスクが伴う。
さらに、仕事や用事で出かける際には、ペットを車中に置き去りにすることはできない。季節は春を過ぎ、気温も上昇してきている時期である。これまで室内で飼われていたペットでも、必然的に屋外に繋いでいくより他ない。
こうした状況に、避難所の運営側も対策を講じ、避難所の敷地内にプレハブ造りのペット預かり施設と、そこに隣接してドッグランが設置された。
ペット預かり施設は、原則ペット連れの被災者たちが運営、管理にあたり、サポートとして日中は専属スタッフが常駐し、ドッグランは解放された。
ノラクロが避難所の敷地内に現れるようになったのは、このころである。
施設を利用している白い犬が散歩に出ると、ノラクロはどこからともなくトコトコと現れ、人間とは一定の距離を保ちながら、犬と犬同士、お互いに会話をするように一緒に歩く。
散歩が終わり、白い犬がドッグランに入ると、ノラクロはその周りをウロウロと歩きながら、そこにいる犬たちや人間たちの様子を眺め、しばらくすると、どこかへ去っていく。
施設スタッフがノラクロのために用意したゴハンを置くと、それは平らげた。人間に対する依存心が、ノラクロのなかに残っているのだろうことは想像できた。避難所の運営スタッフに聞くと、ノラクロは、被災前にはこの場所では見かけなかったという。おそらく、被災を受けてノラクロとともに同行避難をしてきた被災者が、何らかの理由でノラクロをこの場所に置き去りにしたのだろう。
いまのノラクロは、人間に対する依存心と警戒心、そして置き去りにされたことで得た自由と好奇心が、ないまぜになっているようだった。
人間に触れさせてくれないのは、自由を奪われることへの不安と警戒であり、白い犬に近づいてくるのは好奇心、避難所の敷地内から外へ出ようとはせず、スタッフが用意する食事を食べに来るのは人間への依存心、ということなのだろう。だから、無理にノラクロを捕獲することはしないでおいた。
無理に捕獲することで、ノラクロが新たなトラウマを抱えることになるかもしれないからだ。
人間が触れることを拒んでいる状況なので、こちらが無理に接触しない限り、ノラクロから人に対して攻撃するようなことはなさそうだ。
それに、ワクチン接種の有無も不明だから、預かり施設内では、ほかの犬と同様の扱いはできないという理由もある。ノラクロの人間に対する依存心と好奇心が、警戒心を上回ったときを待って、そのときが来たら保護しようということになった。
ノラクロが、なぜこの場所に置き去りにされたのかを知る手がかりを、当のノラクロに見出すことはできない。
しかし少し想像を膨らませると、ノラクロの飼い主は、少なくとも被災当初はノラクロと一緒に、ここへ避難してきたことは、ほぼ間違いない。被災前までは、おそらく元の飼い主に愛情を受けながら、ノラクロは平穏に暮らしていたのだろう。災害によって家を失うことによる精神的なダメージは、想像を絶するほど計り知れない。さらに、その直後から始まる不自由な避難所暮らしは、精神的疲労に追い打ちをかける。
こうした状況の中、連れているペットがさらに、負担要因となることもあるかもしれない。もしくは、他人には知りえないような、切迫した『何らかの事情』が存在していたのかもしれない。
しかし、その状況にない人々の中には、『それでも家族としてペットと暮らす以上、そのペットを手放すなんて許せない。』とか、
『命に責任を持てないのなら、初めからペットを飼う資格などない。』『そうした飼い主を取り締まる法整備を強化すべきだ。』などといった意見をぶつける人も多く存在する。
過激な人になると、『ペットを飼育放棄するような飼い主には、ペットが受けた仕打ちと同様の罰をあたえよ!』というものまである。
物言えぬ動物たちの立場になってみれば、こうした感情的な意見にうなずける部分もあるし、また賛同者も多いのも事実だ。だから、ノラクロの飼い主に対する世間の風当たりは非常に強いものになる。もしそこに切迫した『何らかの事情』があったとしても、である。
翻って、ノラクロの飼い主の立場を想像してみる。災害によって被災し、使い物にならなくなってしまった家を出て、ノラクロとともに避難所へ逃げたが、どうしても回避することができない『何らかの事情』で、ノラクロが大きな負担となった。誰かに相談したいが、世間はこちらの『何らかの事情』について寛容ではない。おそらく、誰かに相談したところで非難され、結局のところ諭されて、困難な状況を継続させることになるのではないか。それならばいっそ、敷地内にペットの預かり施設もあるし、ドッグランもある、ここの避難所に置いていけば、きっと世話をしてくれるだろう。新しい飼い主も、もしかしたら探してくれるかもしれない。苦悩の末、元の飼い主は別の避難所へ、犬を置いて移動した。
世間の一般的な感情論からすれば到底許しがたい行動と捉えられるが、かえってその声が、飼い主の『犬を置き去りにする』選択を助長したとも言えなくはない。
もし、飼育困難なペットについて、フランクかつカジュアルに相談できる仕組みが身近に存在し、そこに対しノラクロの飼い主が『誰かに相談する、話を聞いてもらう』という選択をしていたなら、ノラクロの運命は良い方向で、もう少し違っていたかもしれない。
はなしを現実に戻そう。
ノラクロが避難所の敷地内に現れてからというもの、あいかわらず白い犬が散歩に出てくると、ノラクロはまるで挨拶をするように近づいてきて、一緒に敷地内をトコトコと付いてくるという日々は続いていた。
ある日の晩、いつものように白い犬が飼い主と散歩をしようと外に出ると、これまたいつものようにノラクロが現れ、あとに付いてきた。
ひとしきり運動公園の敷地内をノラクロとともに散歩した後、白い犬とその飼い主は施設内に入ろうとドッグランの柵を開けた。
ドッグランと預かり施設は隣接しているため、施設に入るにはまずドッグランの柵を開け、そこを経由しなければならない。いつものノラクロならば、この時点でドッグランから離れてどこかへと立ち去るのだが、この日はなんと、白い犬の後に付いてトコトコとドッグランに入ってきた。
白い犬の飼い主から連絡を受けたスタッフがすぐさま駆けつけ、ドッグラン内にいるノラクロの首に慎重にロープを掛けようと試みる。ノラクロが人間との距離を自ら縮めてきた、そう判断したからだ。
そうっと、そうっと・・・。
ノラクロのトラウマにならないよう、慎重に、時間をかけて。ノラクロは、少し腰を引くような態勢を取ったが、じっとその場で固まって、上目遣いでスタッフを見ている。
一回目、失敗。
ノラクロは、スタッフの足元をスルリと抜けた。久しぶりの人間との触れ合いに、まだ不安があるのだろう。スタッフたちは、また数十分をかけて、ドッグラン内でノラクロに優しく声をかけながら、その距離を縮めていく。
人間への依存心と不安の狭間で葛藤するノラクロと、どうにか安心感をノラクロに与えたいスタッフとの根比べ。
ノラクロは、無事に保護された。いざ保護されてみると、とくに暴れるようなこともなく、まるでそうされることが自然であるように、ノラクロはスタッフの意思に従っているようだった。
前述の通り、ワクチン接種の有無が不明なノラクロは、施設内で預かることができないし、ドッグラン内でもほかの犬たちとの接触は避けなければならない。ノラクロは、用意したゴハンを食べ、スタッフがドッグランの外に設置したケージを寝床にして眠った。
一夜明け、ノラクロはおとなしくケージの中で朝を迎えていた。
しかし、白い犬が朝の散歩に出るため、ノラクロのケージの目の前を通り過ぎようとしたとき、ノラクロは自分の鼻を器用に使い、ケージの丁番を開けて、外へと出てきてしまったのだ。
あわてて、白い犬とその飼い主はドッグラン内へと戻る。すると、ノラクロも一緒に白い犬に付いてまたドッグラン内へと入ってきた。逃げる気持ちはないよ、ただ白い犬と遊びたいだけ、そんな意思表示だったのか。
施設スタッフは、昨晩と同じようにたっぷり時間をかけ、慎重に、細心の注意を払いながら今度は首輪と引き綱をノラクロに装着し、ドッグラン内の柵に繋いだ。今度は、ケージの丁番を鼻で開けて外に飛び出す心配も必要ないドッグランの中。スタッフは安心して、施設内の作業に戻った。
しばらく経って、ふとドッグランに目をやると、そこにいたはずのノラクロがいない。ノラクロが繋がれていた柵には、途中で噛みちぎられた引き綱が、ぶらりと垂れ下がっている。
当のノラクロはというと、こちらの様子を少し気に掛ける様子を見せながら、首からちぎれた引き綱をぶら下げ、ドッグラン内をトコトコ歩いている。外の世界に逃げようと思えば、もしかしたら逃げられたかもしれない状況。だがノラクロはその選択をしなかった。別の言い方をすれば、ノラクロは最後の『繋がれない自由』を楽しんだ後、自ら人間との暮らしを選択したと想像できなくもない。
ただ、そこにいる誰もが、その時のノラクロの姿から、人間に対する依存心や好奇心が、ようやく警戒心と不安を上回ってきたように感じていた。
スタッフは、ノラクロの脱走に対しては、さらに細心の注意を払うことになったが、当のノラクロは、そんなに注意しなくてもいいよ、とでも言いたげに、それからは引き綱を噛みちぎることも柵を鼻で開けることもせず、穏やかに過ごした。
ノラクロが避難所で姿を現すようになった頃から、すでに2か月以上が経過していた。
数日後、地元の動物保護団体の代表という方が、ノラクロの話しを聞き受け、ぜひ会いたいと避難所の預かり施設を訪れた。譲渡会に出すかは未定だが、代表のその方は、自分で飼育する可能性も視野に入れて引き取りたいといってきたのだ。
ノラクロの、なんだか飄々として、それでいてユーモラスなその性格に惚れ込んでの申し出だった。
ノラクロは、行政の規定上数日間を保健所で預かられたのち、先の保護団体代表の方に引き取られることになった。
ノラクロの命は、こうしてバトンを渡すように繋がれることになった。
ノラクロのことだ。きっと、周りを笑顔にしながら、飄々とした性格のまま、愛されて過ごすことになるのだろう。
ペットを飼うということは、命に対する責任を負うということ。
では、『命に対する責任』とは、なにか。
一度飼うと決めたら、どんな理由があろうと寿命が来るまで面倒を見ることなのか。もちろん、それが最良だ。
だが、それぞれ人間は、生きていくうえで色々な想定外の出来事に直面する。そのなかで、もしペットを飼育することが困難な状況に直面したなら・・・。
ペットと暮らすに当たって、相当の覚悟を持ってペットを迎え入れたとしても、想定外の状況は、だれの身にも起こりうる。見失ってはいけない大事なことは、『自ら関わった目の前の命が、人為的に断たれる』のを防ぐことであり、『自ら関わった命は、繋いでいく』ということ。
つまり命に対する責任とは、どんな理由があろうと、『命を繋ぐ努力をすること』と捉えるべきではないだろうか。
そして社会は、『命を繋ぐ努力をする人』を受け入れる土壌と器を、もっと積極的に作るべきであり、動物愛護の思想とは、そこに本質があるのではないだろうか。
現状の動物愛護活動の思想には、心理学者やカウンセラーでもないのに飼い主の姿勢や心までも変えろ、改めよという風潮が存在する。もちろん、すべてとは言わないが。責め立てられ、追い詰められることが予想できる場所に、わざわざ相談に行ったりはしないだろう。
結果として、どこに相談することなく、ペットを捨てる、という選択肢を選ぶ飼い主を生んでしまう。これでは、本末転倒だ。
道徳的に疑問符が付く、飼育困難の『何らかの事情』、例えば、
『小さいと言われて迎えたのに思ったよりも大きくなったから。』
『こんなに臭うとは思わなかった。』
『引越し先がペット不可物件だったから。』
『毛がたくさん抜けて掃除が大変だから。』
『旅行に行けない。』
などは、確かに非難されても仕方ない『事情』とも言える。
しかし、感情論や道徳論を武器に他者を攻撃するだけでは、瞬間的な問題提起にはなるが、本質的な解決にはつながらない。
法整備や規制の強化も、抑止力の効果は善意の行動を阻む可能性もある。
むしろ、命を繋ごうと潜在的に思っている人の足かせになっている側面もあるということだ。
そろそろ、感情論で dis るのはやめにしないか?
たとえ上記のような理由であれ、その飼い主が『命を繋ぐ努力をする』のであれば、それをサポートする社会であるべきではないだろうか。少なくとも、その命が繋がる可能性は段違いに増えるはずであるし、思考方法としては建設的かつ健全である。
当のペットにとっても、飼い主が飼育困難と思っている状況の中で無理をして飼われるよりも、別の飼い主と出会い、暮らしたほうが幸せな場合もあるはずだ。
責め立てて追い詰めるのではなく、事情を吸い上げて、飼い主の本音を聞き出す。そのうえでのアドバイスであっていい。
もし、ノラクロの飼い主が世間の非難の目にさらされることなく、相談出来たりカウンセリングを受けたりできるような環境にあったなら、ノラクロは『ノラクロ』ではなく、これまでと同じ名前で呼ばれていたであろうし、ワクチンの接種情報や健康状態や食べ物の好き嫌いなども分かっていたはずである。
もっと早くスタッフやそこに暮らす人々との距離も縮められただろうし、もっと深くノラクロのことを知れたかもしれない。
情報量が多ければその分、マッチする飼い主も見つけやすいのだし。
ノラクロの命は、それでも繋がった。
これから新しい名前をもらって、穏やかに暮らすことになるだろう。
だが本心を言うと、キミが今まで呼ばれていた名前を知りたかった。今になってみると、トコトコと背を向けて歩きながらチラチラとこちらを振り返ったとき、もしかしたらキミは、自分の名前が呼ばれるのを期待してたんじゃないかって気がする。
ノラクロに、幸あれ!
文:村松歩
絵:長友心平