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宮代町立コミュニティセンター 進修館

埼玉県宮代町への出張のついでに、宮代町立コミュニティセンター進修館に立ち寄った。
これまでも近くを通ったことはあり、アイコニックな外観が気になっていた。今回も10分くらいしかなかったけれど、内部にも入ることができて、特徴的な意匠に驚かされた。
象設計集団という設計事務所による建築ということは知っていたが、なぜここにこのような建物がつくられたのか、さらに興味が湧いたので、少し調べてみた。

宮代町

初代町長 齋藤甲馬

宮代町は、昭和30(1955)年に須賀村、百間村が合併してできた町である。その町名は、百間村の総鎮守姫宮神社の「宮」と、須賀村の総鎮守である身代神社の「代」に由来する。

初代町長に就任した齋藤甲馬は、昭和57(1982)年に没するまで、27年にわたり町長を務めた。「世界のどこにもない町をつくる」ことを目指した齋藤町長は、宮代町を全国から視察団が来るまでの町にした、宮代のまちづくりを語るには欠かせない存在であるという。

特産品 巨峰

宮代町の特産品は巨峰で、それにちなんで町のイメージカラーも紫だという。確かにホームページも紫色が基調になっている。

宮代町で巨峰の栽培が始まったのは昭和34(1959)年頃、最初に巨峰栽培を始めた和戸という地区である。和戸地区周辺はもともと左沼という沼だったため、土地は粘質で麦も野菜も育たなかった。当時の農家は、米と麦の生産で生計を立てていたため、農家の生活は苦しかったようだ。

最初に巨峰の生産を始めたのは、和戸地区の農家である小林常勝氏。巨峰は露地でも栽培できることを知った小林氏は、近隣の農家に熱心に呼びかけ、力を合わせて巨峰栽培を軌道に乗せたという。昭和57(1982)年(奇しくも齋藤町長が亡くなった年)には、宮代町は県内トップクラスの巨峰の収穫量を誇った。

一番大変だったのは、ぶどうの枝を支える棚づくりで、重機のない当時はすべて手作業で棚の支柱の基礎の掘削や埋め戻しなどを行う必要があった。現在は、手作業中心の巨峰栽培に携わる農家は減少傾向にあるようだが、かつてはいたるところでこのぶどう棚が見られたのかもしれない。

進修館と象設計集団

前置きが長くなったが、進修館についてである。進修館の名称は、明治5(1872)年に開設し、現在の宮代町立百間小学校の前身となる進修学校に由来し、当時の建学の精神を今日に伝えている。

外観(2024年6月)

設計を行った象設計集団の創始者の一人である建築家・富田玲子は、齋藤町長の姪っ子であり、宮代町にも幼少期から何度も訪れていたようだ。「世界のどこにもないような空間」という齋藤町長からの依頼を受け、宮代という土地の特性を調査し、この特徴的な建築や内部の家具などのデザインに落とし込んでいる。

開館:昭和55(1980)年7月
竣工:昭和55(1980)年5月
建築面積:2,484平米
構造・階数:RC造・2階建
設計:象設計集団
施工:間組

すり鉢状の広場の中心から放射線状に広がっていくイメージで、建物は広場を包み込むように柔らかくカーブしている。2本の光路が意識されており、一つは南北の軸、もう一つは富士山と筑波山を結ぶ東西の軸である。この東西南北のグリッドの上に柱が立ち並んでいる。

宮代町の特徴である農業や自然を敬う心のシンボルであってほしいという思いから、植物と建物が一体となったような場となるよう意図されている。特に、特産品の巨峰が意識され、ぶどう棚に見立てられた柱、タイルや家具などにもぶどうの意匠が見られる。

平成12(2000)年頃には外壁の補修が行われ、当初の力強いイメージのコンクリート打ち放しから、「奥深い艶やかなまちづくり」をイメージしてぶどう色に変更されている。

今回、残念ながらじっくり見る時間がなかったが、また時間をつくって訪れたいと思える魅力的な建築だった。

ステキなフォントに誘われる

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