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トイ・ストーリー4 V.S. チャイルド・プレイ(2019)

トイ・ストーリー4。7月12日公開。
チャイルド・プレイ。7月19日公開。
両作品アメリカ製作。2019年。

両方の共通点はおもちゃで、喋るところ。両作品が優れたメッセージ性を持てるのは、おもちゃを通した社会や人間の側面を切り取ることができるからだ。子どもの周りの環境の危うさをおもちゃの目線で描くことで、大人の矛盾やいい加減さ、子供の行動パターン、思考の純粋さを表現できる。今作品は両方とも子ども目線と見せかけて、大人への皮肉なメッセージが込められていた。

まずは、歌から判断出来る、おもちゃの主人への愛仕方から。

君はともだち(トイ・ストーリー劇中歌)

俺よりもすごいやつはたくさんいるよね。
だけど俺よりも君のことを気にかけるやつはいないよ。

バディ・ソング(チャイルド・プレイ劇中歌)

どれほど愛しているか君にはわからないよね。
君のことを絶対はなさないよ。

ウッディ→父姓愛、あらかじめ録音された声が存在するが、アンディの見えないところでは自分の意思でしゃべり出す。よって、かなり倫理感情が強めで、その時々の情勢にあって問題提起となるような話題に答えを出していく展開になっている。

チャッキー→母性愛、常に録音されていく声。AI によって高度なサービスを叶える為のコミュニケーションスペック。性癖が強めで、いわゆる社会の皮肉をしているような人たちの声を浮き彫りにして肯定するような、偏りはあるが民衆受け必至の内容。

個人的に、見終わった後に感じたのは、トイストーリーのフィクションとしての腑に落ちなさと、チャッキーの激情に対する切なさだ。描くのはどちらも愛であり、大人が抱えている愛の深さを疑問視するような、含みのある終わり方であることは間違いない。わたし自身は、チャッキーによって描かれたひとつの愛のかたちと不気味さに、確かに感情を動かされていたのをひしひしと感じた。

泣ける要素はチャッキーの不完全さにあるようだ。完全な心の声に従うことは、社会の不完全さを表す。AIのチャッキーが従うのは、そんな不完全な世の中に存在する不完全な家庭の少年。そして少年の周りで繰り広げられる、"不完全さが(すべてを)完全にする"、を地で行く大人たちの愚行の数々。チャッキーの目線で見ていると、起きるさまざまな場面で制裁を下していくさまはむしろ痛快だ。社会への真面目な関わりかたの裏にある感情、いわゆる"他人の不幸で飯が旨い"感情を満たしていく。やがてプログラムされたAIによる行動に、感情移入してしまう(感情などないのに、)感覚に我に却って不気味さを覚える、後半での演出がよかった。

トイストーリー4のお話は子どもの世界から完全に独立した、おもちゃの世界の主観フィクションとなっていた。ピクサー独自のクールな演出が鼻についたが、内なる声(ボイス機能)はもう古めかしいガイドラインにしかならないことがセリフになっていることからわかるように、時代によって切り捨てられていくものをやはりテーマにしたいようだ。心の声に従う、つまり昔からの方法で考えて頭を悩ませることなく、今のこの世界に効果的にどう立ち向かうか、という意思決定が必要だというメッセージというふうにわたしは受け止めた。

ウッディのそれは、仲間をだれひとり見捨てないことではなく、目の前に広がる世界に呼応する自分の心の声を聞いてあげることだった。いわばおもちゃとしての役割イコールおもちゃとしての生きていることの全て、ではないということがわかった時に、ウッディが下す決断を描いたストーリーだ。つまり、この映画の肝であった子どもから大人への成長の物語はいったん終わりにして、大人ができる決断についての話に方向性を変えているのだ。

そこに必要とされ、居ることに何の疑いもなかった人間が、いつかそれを失う瞬間。生きていることで出くわすそんな場面に、"大人たち"はなにかを決めなければならない。それが成長することではないことが、本作でハッキリしてしまったのだ。ピクサーが次に視点に持ってきたのは、子どもの危うい純粋さをずっと見守って来た彼らの話だった。しかしそれがウッディやバズに命を吹き込んだ彼らの仕事だとすれば、語り部が視聴者に不完全さを露呈したと言っても過言ではない。

共通するのは、大人への刺すような問題提起。それは、子どもに教えてきた言葉って本当にあなたの言葉ですか、という問題。大人が大人に対して伝えようとする言葉であったり思い、そこには子どもの存在が必要なのかもしれない。両作品ともほろ苦い味がした。

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