ひまわり(1970)17歳のウィーン フロイト教授人生のレッスン(2020)
今回は2作品のレビューになります。
一作目が「ひまわり(1970)」。第二次世界対戦下のイタリアが舞台の恋愛映画。
二作目が「17歳のウィーン<フロイト教授人生のレッスン>(2020)」。こちらも第二次世界対戦下のオーストラリアを舞台に、少年とおじさんの心の通じあいを基軸にした、青春映画である。
「ひまわり」は大戦によって引き裂かれたカップルが、お互いを想い再会を果たすものの、心情の微妙な変化によってすれ違い、結ばれないさまを描く。
大戦に夫を送り出すシーン、出征先のロシアまで夫を探しに出向いた末に夫と出くわすシーン、再会し、お互いの気持ちを確かめたあとの別れのシーン、すべてが列車というアイコニックな情景によって止まらない時の流れの無情さを表している。
印象的なのは、妻から夫に語りかけるこんな言葉だ。
「私なしでも生きていけるのね。」
それでも、誠実であろうとする夫は、上手く感情が言葉にのっていかない。
「17歳のウィーン」では、田舎から出てタバコ屋で働くことになった一人の青年が、周囲の大人たちから受ける影響と、戦時下に過ぎる日常をユーモラスに描く。
登場するフロイト教授はタバコ屋の常連として、青年と出会う。頭を治す名医だ、という店主の紹介から教授に質問する。
「教授の本を読んで勉強します」
「君は若いんだ。外で楽しいことをしなさい。女の子とね。」
「そう簡単には。。」
「みんな見つけとる。きみは水に飛び込むときに水を理解するか?」
青年は店主との交流や、ひとり女性との交遊を通して少しずつ自分の心に気づいていく。そして、ドイツ併合の空気が漂うウィーンの日常が、青年の夢と現実の映画的な対比の表現を取り入れながら、ゆっくりと変化していく様は見応えがあった。
戦争映画という枠にはまらない、日常を照らす映画的な手法を取り入れた点で両作品は似ている。国民を動かす戦争という大きな力の前に心情が漂う様子を丁寧に描きながら、しかしそれはどうしても現実から解離した非現実性(ドラマ)のために造られた調和のようにも見える。
私は戦争を経験していない。それは経験されたかたの声や、映像や、当時の写真でしかわからない。しかし、映画の中を生きているかのようなコロナの時代にあって、少しだけ感受することに疑い深くなっているようだ。見たいものしか見ない性分を痛いほどに感じる日常のさきに、自分で見ずらくしている「人間らしさ」への忌避でもある気がする。
誠実な青年も、戦争で記憶を失いかけた夫も、また夫を想いながら再会を望む妻も、共通して言えるのは失いかけた心(自分)だ。働くことによって、また働けと語りかける何者かの心が、時として心から奪うものについて、彼らが気がつく瞬間を是非スクリーンで体感してほしい。私は特に、多数に依って心の性質を冷笑する人間を、映画として描く大きな視点の力を、葛藤しながら拝見させていただいた。