学生支援緊急給付金③
②から続きます。
I've had one motto which I've always lived by: "Dignity. Always dignity". (人生の規範にしている座右の銘があるんだ。「どんな時でも尊厳を持って」というものさ。)
ー雨に唄えば(1952)よりー
大学や昔の映画が推してくるDignityとは何でしょうか。
直訳すると尊厳になりますが、日本では仏教的な響きを持つ「徳」、そして哲学者カントの云う理性的な人格などが近い意味を持つ気がします。そこには人間における絶対的価値という何かスゴいものを印象づけます。もしくはそうした人間らしさは、日常の油断した生活から見れば、強(こわ)いものかもしれません。
話が逸れました。
大学では経済学という分野を専攻していました。
経済学はなぜ義務教育で教えないか?
経済学が有限の資源の生産と交換を議論するからです。
そこには価値判断、倫理を伴う学問と科学的アプローチの両方があるので、経済問題を義務として扱う観点はまだ存在していないのです。
経済問題のひとつに「Sustainable Development Goals」が問われています。この通称SDGsは国連が掲げる2030年に向けての持続可能な開発目標のことです。今回はこのSDGsをグローバルな話題ではなく、仮の「持続可能な目標設定」として使わせてもらいます。
あくまで日常生活の目標設定として。
日常的な生活の延長にある最適解で、
大きなリソースが枯れる可能性があるからです。
もし、
学ぶことが日常的な生活の延長なら、
見返りは存在します。
しかし
個人的な見返りによって共同のリソースが枯れるとき、
共同者との翻訳と言動は一時停止します。
今回のコロナショックで、多くの企業が従来の活動を休止せざるを得ない状態になりました。
テレワークという新しい活動形態に移行したり、
飲食店はお弁当販売に力を入れるなど適宜やり方を変える一方、
配達や一部の生活必需品を扱う小売店では通常以上の業務を余儀なくされている場合もあります。
やり慣れた生活が停止することの恐ろしさは、今回の緊急事態によって多くの人が感じていることと思います。また、新しい活動形態に移ることを考えるとき、日常生活に絶対に必要とされるサービスが継続されなければ実現出来ないことへの気付きも実感する機会があります。
しかし、
もし
働くこと、学ぶことの両方が継続される為に、
その両方に個人的な見返りを求めないことが可能なら、
持続可能な目標設定を自ら発信し、
周りに求めることを肯定していいはずです。
それは自分さえよければいいという
自己実現の否定にもつながりますが。
「自分がなりたいものは心が教えてくれる。臆病になった時は胸に手をかざしてこの言葉を言うんだ。“"Aal Izz Well”(きっとうまくいく!)」
ーきっと、うまくいく(2009)よりー
大学に限られたことではなく、
多くの職場で学びながら働くことに価値が見いだされるのも、学ぶという行為が個人的な判断だけでは持続不可能な課題だからではないでしょうか。
大学で学ぶことの意志は、国からの給付金だけで復活しますかね?
自分自身に備わる人間らしさ、徳、尊厳、理性。
そうした質を認めることこそ実は勇気が必要だと思います。
そしてそれらを損なわないような共同者との翻訳と言動も必要になります。自信過剰でも自己否定でもない、自らを信じることから、目的が定まってくる。他でもない自分自身から元気になっていく。
僕は、ここからの自分自身の元気な未来を想像することを、持続可能な目標設定にします。
コロナ禍のなかでも学ぶを継続出来ると信じます。
"元気でいることは学ぶことの意志と似ている"
この気概で頑張ります。