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ニュー・シネマ・パラダイス

1989年。124分。イタリア・フランス作。

シンプルに、愛するということについて描いた映画だ。

恋焦がれる相手に対する愛の表現と幸せの主導権を保つ葛藤は、ときにお互いを攻撃し合ってしまう。愛の表現は瞬間的に切り取られた人間性を写し出す。すなわち、(すごく)鮮明に現在の自分をさらけだすこと。幸せだとそこで思っている間はいいが、やがて幸せの感性は欲求の際限無いことをいいことに、そこにあったはずの人間性をぐらぐらと揺らし、愛の存続を相手そのものに求めようとする。

幸せの主導権を握らせまいとする愛の性質がここにある。自己のなかの愛は絶えず成長するのに、愛を表現しようとするいまの自分の姿はいつまでも同じようにそこにいる。幸せの主導権を相手へと委ねたくなるのは、もう時間の問題だ。

映画に登場した兵士と王女の恋愛の話
(100日間待ち続けることで愛を確かめようとした兵士の話。99日もの間女王のことを恋慕い続け、その返事を待つために夜通し家の前で立ち続けた兵士だが、約束の100日目に返事を待たずに去ったという逸話)
は、愛するがゆえに状況が好転しない切ない事実として、アルフレードによってトトに語られる。
同時に、幸せの主導権を最後まで自分のものとして保とうとした彼の姿を通して、アルフレードはトトに何かを伝えようとする。兵士の行動は、むくむくと成長する愛と、成熟した大人の対応をしようと悩む自己とのあいだに、責任や孤独を伴う葛藤を抱えていたに違いない。愛が空間的に成就せずとも、永久的に自分のなかに存続させようとした兵士の決断について、アルフレードはトトにこう語る。「人生は映画のように上手くはいかない、(人生は)もっとままならないものだ、」と。
しかし、恋愛真っ只中のトトは当初聞く耳を持たない。

やがて時間が過ぎ、故郷と恋人を離れ旅立ったトトは、いまや映画監督として成功し、友人アルフレードの故事を聞きつけて、思い出の映画館を30年ぶりに訪れる。そして、(この映画のラストシーンである、)当時検閲によって取り除かれていたキスシーンの断片を編集したフィルムを映画館で一人眺めることになる。男女の恋愛の話から、年の離れた男同士の友情の話へと、このワンシーンによって映画は劇的な転調をするのだ。

トトの恋愛は成就しなかった。トトの恋人エレーナとの恋愛は旅立ちの間近、思いを確めること無く終わっていた。大人になった両者は再会を果たすが、そこでアルフレードが二人を会わせない画策をしていたことを知る。歯ぎしりするトト。しかし、エレーナは語る。それは意地悪ではなく、成就せず、もしくは成就する、その瞬間をあえて見せないようにしたアルフレードの優しさだと。

成就しないと思うことで、諦めてしまうこと。成就することによってしごく当たり前になってしまうこと。それは恋愛だけでなく、さまざまな経験にあてはまる。実際にトトは映画監督としての成功から、仕事への情熱を失いかけていた。ではアルフレードの例のフィルムは何を伝えたかったのか。

キスシーンというメタファーの裏に隠されている成就の瞬間。それは何かの終わり、結末としての意味を持つ。大人たちは彼の成長を止めてしまうものから彼を守ろうとする親心から、トトから成就の瞬間をわざと奪っていたとも言える。映写技師としてトトと同じ映画という表現に携わるアルフレードは、同じフィルムで違った意味を示そうとした。

スクリーンに写るものが子供のころの憧れとはまるで別物に映るのだ。重ねられた幸福の瞬間の全てが、トトの成功することを知っていたかのように祝福している。大粒の涙を目に貯めながら、子どものようにスクリーンを見つめるトト。映画という表現を通して人生を生きてきた彼に、欠けていた成就のピースが今まさに嵌まっていく、その瞬間に観客は立ち会う。仕事を愛し、関わる人を愛するアルフレードの人間性によって愛は見事に表現され、美しく花開いていた。

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