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パラサイト 半地下の家族

2020年。130分。韓国製作。

社会に取り残されないように、これまでとは変わらないといけないという焦りは誰にでもある。しかし、今していることが一体誰が望んだことなのか、わからないまま変わろうとしていないだろうか。それは自分のため?誰かのため?それとも社会のため?焦りが不安へと変わる。そんな気持ちがこの世界の仕事にあふれている気がする。

映画パラサイト~半地下の家族~に登場する貧乏キム一家は、家族ひとりひとりが別人に成り済まし、身分を偽装することによって、高台の高級住宅で生活する金持ちのパク家と雇用関係を結んでいく。

安心して生活を送る為の仕事が無い、全員失業中の韓国人一家と日本人のわれわれの共通項を探りながら、社会の「約束」を果たせなくなってしまった人たちと、「諦め」ないで仕事し続ける人たちの寄生関係を日本にも見た。社会における「約束」と「諦め」。変わっていく日本のなかで、この2つの重要性について考えてみた。

「約束」は、日常で期待される当たり前をつくっていること。たとえば朝起きるまえにアラームを設定して起きられるようにする。そこにある、アラームが定時に作動してくれるという期待。電車の時刻表の少し前に駅に到着するように家を出発する。そこにある、時刻表通りに電車が到着することへの期待は、利用者への「約束」になる。

もし電車が時刻表通りに来なかったり、遅延してしまっても「約束」はなくならない。社会的に「約束」が不要とされない限り、利用者は一本早い電車に乗ったり、遅延証明書を手にしたりして「約束」のうえに生活を成り立たせているからだ。社会が電車で遅れた人に遅延証を求めたり、不可抗力の事態を避ける為の事前の予防策を要求するのは、「約束」への信用からつくられた、ポジティブな「諦め」の態度ではないだろうか。それは、社会全体が「約束」を守ることへの意思の確認である。そして同時にそうした「諦め」への承認も含まれている。社会とは「諦め」を共有することによって「約束」への信用を担保している、ということになる。

物語中盤まで、両者は雇うもの、雇われるものとしての関係を通してお互いに満足のいく仕事や生活を手に入れている。見るものには、交わされる約束が完全に機能しているように映る。身分を偽装しているキム一家の就職は法外の行いであるが、その仕事ぶりには清々しささえ感じさせる。そんなキム一家はそもそもなぜ失業してしまったのか?

"計画というのは無計画だ。計画があるから予定外のことが起こる。計画しなければ予定外のこともない。"キム家の家長は物憂げに語る。計画を「約束」のうえに成り立たせようとするならば、社会の「約束」を「諦め」たうえに計画をたてなければならない。予定外のことが起こるたびに「諦め」ていたのではたまらない、と。しかし、その「諦め」を否定するかのような物語終盤のパク氏の行動に対し、衝動的な殺害を犯してしまうほどの強い感情を、キム氏は抱くことになる。

交わされた契約には微塵も「諦め」は共有されていなかったのだ。そして同じ社会で暮らす両者の間にあるはずの「約束」への信用はいつの間にか無くなっていた。ただ目の前の契約の崩壊だけがそこにある、そんな関係の終焉の仕方が今後も当たり前に続いていく、そんな余韻をのこして物語は終わる。

パラサイト(寄生)しているのはキム一家のように見えて、実はそうではない。パク一家もまた、「約束」への信用を失ったものたちとして、仕事をしていたのではないだろうか。「諦め」ることへの態度の違いが、変化する仕事への対応の仕方に格差を生み出したが、どちらも社会の変化の速度に焦りを感じている。誰も望まない変化に対して、ひと呼吸おいて対処する。そんなことが出来る状況の為に、みんなで「約束」を守る意思を確認していくことは、日本人が本来得意とすることではないだろうか。

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