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ビリーブ 未来への大逆転

※2020/5/7.13:30改訂

2019年。120分。アメリカ製作。

のちにアメリカ合衆国最高裁判事となったルース・ベイダー・ギンズバーグが弁護士時代に史上初の男女平等裁判に挑んだ実話をもとに描いたドラマ。

貧しいユダヤ人家庭に生まれたルース・ギンズバーグは、「すべてに疑問を持て」という亡き母の言葉を胸に努力を重ね、名門ハーバード法科大学院に入学する。家事も育児も分担する夫のマーティの協力のもと首席で卒業するが、女だからというだけで雇ってくれる法律事務所はなかった。やむなく大学教授になったルース。

それでも弁護士の夢を捨てられないルースに、マーティがある訴訟の記録を見せる。それは、男であるという理由から、老母の介護控除の申請を却下された独身男性のケースだった。ルースはその訴訟が、歴史を変える裁判になることを信じ、自ら弁護を買って出る。(一部引用:フィルマークス)

男女平等という未来への想像力を決して失うことがなかった、ルースの辿った足跡がドラマとして語られる。エンターテイメントとしての魅力はもちろん、ルースのみに焦点を充てることの無い視点によって、歴史解釈としての事実を曲げることなく伝えようとする試みが感じられた。

アメリカという多様性の国にあって、「すべてに疑問を持つ」とはどういうことか。それは解釈の多様化の時代を受け入れるだけでなく疑問視すること。映像化することによって時系列上に振り返ることのできる事件も、当の時代の本人たちには全体的視点を持つことは困難だったはず。もちろんルースは頭のいい女性だが、50年前のアメリカで起きた男女平等裁判に息づくその積極性は、想像力による解釈の多様化に向き合うことが必要な現在のわれわれの視点に置き換えても、学ぶべき姿勢があるように思う。

話は変わって、いま凝視されている世界で同時発生したコロナ禍のあとの未来。ニュースから各国の対応もわかってくるなか、日本という政府が果たした(?)給付金や非常事態宣言による未来への解決策。それらは本当にこの国の「100」なんだろうかという疑問。技術的な想像力を持って当事者、第三者へと語りかける、彼女から学ぶことーー。

今回のような解決策を考える際、事態経過の想像は言語化することによって議論となる。議論が起きるのは、いま起きていることから想像力を働かせるからであって、起きてきた事件(データ)をもとに新しい議論が起きるのではない。数値化されたデータは想像力の材料として不可分ではあるが、議論の必要条件ではないはずだ。

コロナ発生から、日本が「100」の解決策を提案するに掛かった時間が、(想像力を駆使することによって議論に掛かった時間+データによる検証)と考えるとき、数値としての証拠に囚われる時間が長すぎたのではないか。必要事項の要請が国民の権利として主張されはじめてから、想像力によって政府が議論した解決「案」は「100」であったのか。われわれは想像しなければならない。

上記のことを踏まえた上で、ルースの法廷での陳述は是非本編で確認してほしい。国民の権利を捉えるべき国側に対し果敢に想像力を要請する見事な言語で締めくくるラストシーンは圧巻だ。

自分の「100」を示す機会が今かもしれない。彼女の「100」の勇気とは、技術的な想像力を持って現在から未来の可能性を考える、考え続ける意志である。粘り強く非日常を送る毎日に、いま想像することはなんだろう。もしもいま、国にわれわれを数値化されたデータに置き換えて議論している時間があるのなら、違和感を覚えなければならない。みんなで想像力を働かせて、声をあげましょう。

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